【1-1】
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【1-2】
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【2-1】
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【2-3】
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【1-2】
【2-1】
【2-3】
【1-1】
『龍谷唄策』から書写された『三十二相』。
この写本は「妙相讃嘆会」を写している。
黄鐘調・延只拍子は「散吟打毬楽」の伴奏で唱える。
「散吟打毬楽」は明治の楽目から消えた雅楽曲で、現在は演奏されていない楽曲である。
【1-2】
同、急。
こちらも黄鐘調で、「鳥急」の伴奏で唱える。
「鳥急」は、壱越調「迦陵頻急」が黄鐘調に転調した楽曲である。
【2-1・2】
老師僧の手沢本による『三十二相』。
本曲・延只拍子の1行目「烏」字に付された博士は、
「ソリ」「イロマ」「ユリ二」「キル」となっている。
一方、【1-1】に見える『龍谷唄策』写本の「烏」は、旋律型こそ記入されてはいないが、
「ユリ三」に解することも可能な筆致ではある……。
『龍谷唄策』から書写された『三十二相』。
この写本は「妙相讃嘆会」を写している。
黄鐘調・延只拍子は「散吟打毬楽」の伴奏で唱える。
「散吟打毬楽」は明治の楽目から消えた雅楽曲で、現在は演奏されていない楽曲である。
【1-2】
同、急。
こちらも黄鐘調で、「鳥急」の伴奏で唱える。
「鳥急」は、壱越調「迦陵頻急」が黄鐘調に転調した楽曲である。
【2-1・2】
老師僧の手沢本による『三十二相』。
本曲・延只拍子の1行目「烏」字に付された博士は、
「ソリ」「イロマ」「ユリ二」「キル」となっている。
一方、【1-1】に見える『龍谷唄策』写本の「烏」は、旋律型こそ記入されてはいないが、
「ユリ三」に解することも可能な筆致ではある……。
「三十二相」とは、具(つぶさ)には如来の身体的特徴を32種類列挙したものをいう。
そして音曲としての『三十二相』は、その列挙した各項に旋律を付けたものである。
魚山聲明の『阿弥陀経』を中心に編まれた、
『例時作法』巻末にある「五念門」第二「讃歎門」の文言がそれである。
如来の三十二相に関する記述は『長阿含経』ほか、多くの経典に見える。
そして音曲としての『三十二相』は、その列挙した各項に旋律を付けたものである。
魚山聲明の『阿弥陀経』を中心に編まれた、
『例時作法』巻末にある「五念門」第二「讃歎門」の文言がそれである。
如来の三十二相に関する記述は『長阿含経』ほか、多くの経典に見える。
ここに記す音曲としての『三十二相』は、
『修正大導師作法』という中世に多くの勅願寺等で勤められた、
年始の修法たる法儀に用いられた音曲である。
『修正大導師作法』という中世に多くの勅願寺等で勤められた、
年始の修法たる法儀に用いられた音曲である。
この音曲の最も特徴的であるのは、雅楽曲を伴奏しながら唱えられることである。
これは馬鳴菩薩(Aśvaghoṣa、 80A.D.頃~150A.D.頃)が詠んだと伝えられる、
『頼吒和羅枳曲』(←クリック)と同系統の聲明曲と考えられる。
もっとも『三十二相』も『頼吒和羅枳曲』も、魚山『六巻帖』などの聲明集に収録されていない。
このことから、相当なる秘曲であったか、あるいは重要視されなかった音曲であったのか。
しかし古博士で記された魚山『二巻抄』には、
以下に記す『修正大導師作法』の次第で音曲が掲載されている。
ことに『三十二相』に関しては、その相数32に及んでいる。
『三十二相』は、6句ごとに同じ旋律を繰り返す。
これは馬鳴菩薩(Aśvaghoṣa、 80A.D.頃~150A.D.頃)が詠んだと伝えられる、
『頼吒和羅枳曲』(←クリック)と同系統の聲明曲と考えられる。
もっとも『三十二相』も『頼吒和羅枳曲』も、魚山『六巻帖』などの聲明集に収録されていない。
このことから、相当なる秘曲であったか、あるいは重要視されなかった音曲であったのか。
しかし古博士で記された魚山『二巻抄』には、
以下に記す『修正大導師作法』の次第で音曲が掲載されている。
ことに『三十二相』に関しては、その相数32に及んでいる。
『三十二相』は、6句ごとに同じ旋律を繰り返す。
『三十二相』は、本曲と急曲の2種類が存在する。
本曲は延只八拍子、黄鐘調『散吟打毬楽』を伴奏しながら唱える。
この雅楽曲は、明治選定譜から外されて、長らく断絶している曲である。
湛智による『聲明用心集』には、延二拍子で唱える音曲として記されている。
即ち、4拍に8拍を加えた12拍子で唱えるのである。
本曲は合曲といって、各字ごとに呂曲・律曲・中曲の旋律が現れる。
あるいは、呂律相具した旋律も現れる。
本曲は延只八拍子、黄鐘調『散吟打毬楽』を伴奏しながら唱える。
この雅楽曲は、明治選定譜から外されて、長らく断絶している曲である。
湛智による『聲明用心集』には、延二拍子で唱える音曲として記されている。
即ち、4拍に8拍を加えた12拍子で唱えるのである。
本曲は合曲といって、各字ごとに呂曲・律曲・中曲の旋律が現れる。
あるいは、呂律相具した旋律も現れる。
急曲は呂曲で、同じく黄鐘調『鳥(とり)急』を伴奏しながら唱える。
『鳥急』は壱越調『迦陵頻急』が黄鐘調になると、『鳥急』という名称に変わるのである。
調子は「水調」と記されている。
水調とは黄鐘調の枝調子のことをいい、本来は律である黄鐘調を呂に転じた場合の名称である。
『鳥急』は壱越調『迦陵頻急』が黄鐘調になると、『鳥急』という名称に変わるのである。
調子は「水調」と記されている。
水調とは黄鐘調の枝調子のことをいい、本来は律である黄鐘調を呂に転じた場合の名称である。
『三十二相』の譜面は魚山に存在するも、天台宗では長らく唱えられずに秘されて来ている。
西本願寺では第14世・寂如(1651-1725)の時代に厳修された、
宗祖親鸞の四百五十回大遠忌の逮夜法要で『三十二相』が勤められた記録があり、
その頃に魚山から伝えられたものであろう。
その後、第18世・文如(1744-1799)の時代の記録では、
毎年の御正忌報恩講の第五逮夜で勤められている。
光隆寺知影が著した『魚山余響』にも、御正忌11月25日の逮夜で勤められているとの記述がある。
西本願寺では第14世・寂如(1651-1725)の時代に厳修された、
宗祖親鸞の四百五十回大遠忌の逮夜法要で『三十二相』が勤められた記録があり、
その頃に魚山から伝えられたものであろう。
その後、第18世・文如(1744-1799)の時代の記録では、
毎年の御正忌報恩講の第五逮夜で勤められている。
光隆寺知影が著した『魚山余響』にも、御正忌11月25日の逮夜で勤められているとの記述がある。
しかしながら、この時代の『三十二相』は、
様々な音曲を前後に挿入しての一座の法要だったので、
『修正大導師作法』のような確定的な作法形式では勤められていない。
我々が概念するところの一連の作法として確立するのは、
第21世・明如を輩出する明治時代以降のことである。
様々な音曲を前後に挿入しての一座の法要だったので、
『修正大導師作法』のような確定的な作法形式では勤められていない。
我々が概念するところの一連の作法として確立するのは、
第21世・明如を輩出する明治時代以降のことである。
明治に至って、『龍谷唄策』が出版されるに当たり、
巻頭の「修正会」と「妙相讃嘆会」の2作法に『三十二相』が収められた。
特に『龍谷唄策』中の「修正会」は、『修正大導師作法』にほぼ準じた法儀となっている。
即ちその次第を見てみると以下の如くである。
巻頭の「修正会」と「妙相讃嘆会」の2作法に『三十二相』が収められた。
特に『龍谷唄策』中の「修正会」は、『修正大導師作法』にほぼ準じた法儀となっている。
即ちその次第を見てみると以下の如くである。
■『修正大導師作法』
一、礼仏頌
一、三十二相 合曲 黄鐘調 延只拍子 散吟打毬楽
一、同 急 呂曲 黄鐘調(水調) 鳥急
一、讃嘆頌文
一、仏名
一、教化
一、表白
一、後誓
一、勧請
一、六種
一、礼仏頌
一、三十二相 合曲 黄鐘調 延只拍子 散吟打毬楽
一、同 急 呂曲 黄鐘調(水調) 鳥急
一、讃嘆頌文
一、仏名
一、教化
一、表白
一、後誓
一、勧請
一、六種
■『龍谷唄策』
「修正会」
一、礼仏頌
一、三十二相 合曲 黄鐘調 延只拍子 散吟打毬楽
一、同 急 呂曲 黄鐘調(水調) 鳥急
一、三礼如来唄(対馬三礼)
一、表白
一、勧請
一、読経 (『無量寿経』下巻 正宗分五善五悪)
仏言汝今諸天人民 乃至 我但為汝略言之耳
一、回向句(和順章)
一、礼仏頌
一、三十二相 合曲 黄鐘調 延只拍子 散吟打毬楽
一、同 急 呂曲 黄鐘調(水調) 鳥急
一、三礼如来唄(対馬三礼)
一、表白
一、勧請
一、読経 (『無量寿経』下巻 正宗分五善五悪)
仏言汝今諸天人民 乃至 我但為汝略言之耳
一、回向句(和順章)
「妙相讃嘆会」
一、三十二相 已出
一、仏名
一、教化
一、嘆仏文(『五会法事讃』)
一、三十二相 已出
一、仏名
一、教化
一、嘆仏文(『五会法事讃』)
『龍谷唄策』の「修正会」は、往古の形式を踏襲しながらも、
浄土真宗に相応しい編集がなされている。
読経が入るのも、大きな特徴といえる。
また、この法要を『修正大導師作法』と、本来の名称でも呼称していたようである。
一方、「妙相讃嘆会」は、御正忌報恩講1月13日(新暦)の逮夜で勤められた。
また、顕如上人三百回遠忌法要でも用いられている。
浄土真宗に相応しい編集がなされている。
読経が入るのも、大きな特徴といえる。
また、この法要を『修正大導師作法』と、本来の名称でも呼称していたようである。
一方、「妙相讃嘆会」は、御正忌報恩講1月13日(新暦)の逮夜で勤められた。
また、顕如上人三百回遠忌法要でも用いられている。
【3】
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【4】
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【4】
【3・4】
西本願寺における現行の『修正会作法』中の音曲。
昭和8年の法式改正により、文言が改められて曲名も「頌讃(じゅさん)」となった。
「頌讃」と称する音曲名は昭和8年以降に見られ、旧「勧請」も「頌讃」という名称となり、
出自の異なる音曲同士が同じ名称になってしまったのは、紛らわしく思う。
旧『三十二相・急』は、昭和8年以降、黄鐘調から壱越調に改められている。
西本願寺における現行の『修正会作法』中の音曲。
昭和8年の法式改正により、文言が改められて曲名も「頌讃(じゅさん)」となった。
「頌讃」と称する音曲名は昭和8年以降に見られ、旧「勧請」も「頌讃」という名称となり、
出自の異なる音曲同士が同じ名称になってしまったのは、紛らわしく思う。
旧『三十二相・急』は、昭和8年以降、黄鐘調から壱越調に改められている。
『三十二相』は、昭和8年の法式改正によって、大きく様相を変える。
『修正会作法』という名称に変更され、『三十二相』は「頌讃」と改称された。
旋律のみが残り、文言は『無量寿経』異訳である『大宝積経』「無量寿如来会」のものに変更された。
音曲の長さもかなり短くなっている。
『修正会作法』という名称に変更され、『三十二相』は「頌讃」と改称された。
旋律のみが残り、文言は『無量寿経』異訳である『大宝積経』「無量寿如来会」のものに変更された。
音曲の長さもかなり短くなっている。
ことに呂曲『急』は、黄鐘調から壱越調に変更されている。
もっとも口伝によれば、この音曲に伴奏される「鳥急」は、
壱越調・双調・黄鐘調の3つがあったとされ、矛盾はないのであろう。
もっとも口伝によれば、この音曲に伴奏される「鳥急」は、
壱越調・双調・黄鐘調の3つがあったとされ、矛盾はないのであろう。
ところで現行の『三十二相』改め「頌讃」延只八拍子は、
「ソリ・イロ・ユリ」の「ユリ」が「ユリ三」で唱えられている。
このことに関して先般、老師僧よりこんな話をお聞きした。
「ソリ・イロ・ユリ」の「ユリ」が「ユリ三」で唱えられている。
このことに関して先般、老師僧よりこんな話をお聞きした。
古い写本には「ユリ二」と表記されていて、上手く拍子に乗らないので不審だったという。
果たして、老師僧の師匠である中山玄雄阿闍梨は、「ユリ三」で唱えられたようだ。
確かに「ユリ三」で唱えると拍子には乗るが、「ユリ二」の問題が解決した訳ではない。
果たして、老師僧の師匠である中山玄雄阿闍梨は、「ユリ三」で唱えられたようだ。
確かに「ユリ三」で唱えると拍子には乗るが、「ユリ二」の問題が解決した訳ではない。
老師僧はその問題解消に研究をされていたようだが、
たまたま坂本の日吉大社に所蔵される写本を御覧になる機会があった。
果たして、そこに記されていた『三十二相』には「ユリ二・キル」となっていたという。
「ユリ二」の後に「キル」という旋律型が加わると、拍子にも合致する訳である。
たまたま坂本の日吉大社に所蔵される写本を御覧になる機会があった。
果たして、そこに記されていた『三十二相』には「ユリ二・キル」となっていたという。
「ユリ二」の後に「キル」という旋律型が加わると、拍子にも合致する訳である。
西本願寺における『三十二相』改め「頌讃」も、「ユリ三」でなければ拍子には合わない。
明治時代の『龍谷唄策』からの写本【写真1-1】を見ても、
博士の終わりに「キル」がないのである。
これを見る限り明治期においても、
恐らくは西本願寺では「ユリ三」で唱えられていたのかも知れない。
明治時代の『龍谷唄策』からの写本【写真1-1】を見ても、
博士の終わりに「キル」がないのである。
これを見る限り明治期においても、
恐らくは西本願寺では「ユリ三」で唱えられていたのかも知れない。
昭和8年の法式改正は、ある意味において非常に原理主義的なものであった。
『三十二相』も所依の経典にはない聖教の文言とて、停廃されたのは想像に難くない。
思うに「頌讃」という呼称の是非に、今更ながら違和感を禁じ得ない。
「頌讃」と呼ぶ音曲は、他にも『大師影供作法』などにも見られる。
こちらは旧「勧請」の音曲である。
原曲も音曲の性格も異なるもの同士を、同じ名称に統一されてしまっている。
もっとも「頌讃」と名付けるしか、他に方法はなかったのであろう。
原曲やその性格を知らない今時の宗門人にしてみれば、さしたる矛盾もなく受け取れるのであろう。
『三十二相』も所依の経典にはない聖教の文言とて、停廃されたのは想像に難くない。
思うに「頌讃」という呼称の是非に、今更ながら違和感を禁じ得ない。
「頌讃」と呼ぶ音曲は、他にも『大師影供作法』などにも見られる。
こちらは旧「勧請」の音曲である。
原曲も音曲の性格も異なるもの同士を、同じ名称に統一されてしまっている。
もっとも「頌讃」と名付けるしか、他に方法はなかったのであろう。
原曲やその性格を知らない今時の宗門人にしてみれば、さしたる矛盾もなく受け取れるのであろう。
ただ、元旦に西本願寺阿弥陀堂で勤められる、現行の「修正会」をみていると、
着座の形など往古の形式はそのまま踏襲されているようである。
即ち、内陣南側の回畳には、
首座に_仔、鞨鼓、助音、ぢ生檗↓ソ察↓鉦鼓の順に着座する。
往古においても、雅楽の打ち物は内陣に設え、管絃は外陣で演奏したようだ。
もっとも、西本願寺の現行作法では、打ち物のみを鳴らし、管絃の伴奏は行われない。
着座の形など往古の形式はそのまま踏襲されているようである。
即ち、内陣南側の回畳には、
首座に_仔、鞨鼓、助音、ぢ生檗↓ソ察↓鉦鼓の順に着座する。
往古においても、雅楽の打ち物は内陣に設え、管絃は外陣で演奏したようだ。
もっとも、西本願寺の現行作法では、打ち物のみを鳴らし、管絃の伴奏は行われない。
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【5・6】
第14回「聲明の夕べ」の法要風景。
昨年・今年と、『修正大導師作法』が勤められたのである。
2018年1月27日撮影。
第14回「聲明の夕べ」の法要風景。
昨年・今年と、『修正大導師作法』が勤められたのである。
2018年1月27日撮影。
蛇足ながら、付言しておきたいことがある。
今時の真宗人にしてみれば「修正会」という名称をして、
その字面から《正月に修する法要》と思って憚らないようだ。
これは大きな誤解と言わねばなるまい。
以て、「修正会」の《修》とは、「御修法(みしほ)」のことである。
即ち、宮中御斎会を起源とする前年の罪業を懺悔滅罪し、
鎮護国家・玉体安穏・国豊民安を祈念する法要のことである。
従って、勅願寺ないし門跡寺で修される法要なるが故にその名がある。
本願寺は亀山天皇より「久遠実成阿弥陀本願寺」との勅額を受けた故事により、
「修正会」を勤めるのである。
このように書けば、全く以て浄土真宗の法義からかけ離れたことを言っているようだが、
「修正会」と呼ぶ限りはそうでなければならない法会なのである。
今時の真宗人にしてみれば「修正会」という名称をして、
その字面から《正月に修する法要》と思って憚らないようだ。
これは大きな誤解と言わねばなるまい。
以て、「修正会」の《修》とは、「御修法(みしほ)」のことである。
即ち、宮中御斎会を起源とする前年の罪業を懺悔滅罪し、
鎮護国家・玉体安穏・国豊民安を祈念する法要のことである。
従って、勅願寺ないし門跡寺で修される法要なるが故にその名がある。
本願寺は亀山天皇より「久遠実成阿弥陀本願寺」との勅額を受けた故事により、
「修正会」を勤めるのである。
このように書けば、全く以て浄土真宗の法義からかけ離れたことを言っているようだが、
「修正会」と呼ぶ限りはそうでなければならない法会なのである。