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Channel: ◆京都生まれの気ままな遁世僧、「今様つれづれ草」。◆
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『三十二相』管見。

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【1-1】
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【1-2】
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【2-1】
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【2-3】
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【1-1】
『龍谷唄策』から書写された『三十二相』。
この写本は「妙相讃嘆会」を写している。
黄鐘調・延只拍子は「散吟打毬楽」の伴奏で唱える。
「散吟打毬楽」は明治の楽目から消えた雅楽曲で、現在は演奏されていない楽曲である。
【1-2】
同、急。
こちらも黄鐘調で、「鳥急」の伴奏で唱える。
「鳥急」は、壱越調「迦陵頻急」が黄鐘調に転調した楽曲である。

【2-1・2】
老師僧の手沢本による『三十二相』。
本曲・延只拍子の1行目「烏」字に付された博士は、
「ソリ」「イロマ」「ユリ二」「キル」となっている。

一方、【1-1】に見える『龍谷唄策』写本の「烏」は、旋律型こそ記入されてはいないが、
「ユリ三」に解することも可能な筆致ではある……。







「三十二相」とは、具(つぶさ)には如来の身体的特徴を32種類列挙したものをいう。
そして音曲としての『三十二相』は、その列挙した各項に旋律を付けたものである。
魚山聲明の『阿弥陀経』を中心に編まれた、
『例時作法』巻末にある「五念門」第二「讃歎門」の文言がそれである。
如来の三十二相に関する記述は『長阿含経』ほか、多くの経典に見える。

ここに記す音曲としての『三十二相』は、
『修正大導師作法』という中世に多くの勅願寺等で勤められた、
年始の修法たる法儀に用いられた音曲である。

この音曲の最も特徴的であるのは、雅楽曲を伴奏しながら唱えられることである。
これは馬鳴菩薩(Aśvaghoṣa、 80A.D.頃~150A.D.頃)が詠んだと伝えられる、
『頼吒和羅枳曲』(←クリック)と同系統の聲明曲と考えられる。
もっとも『三十二相』も『頼吒和羅枳曲』も、魚山『六巻帖』などの聲明集に収録されていない。
このことから、相当なる秘曲であったか、あるいは重要視されなかった音曲であったのか。
しかし古博士で記された魚山『二巻抄』には、
以下に記す『修正大導師作法』の次第で音曲が掲載されている。
ことに『三十二相』に関しては、その相数32に及んでいる。
『三十二相』は、6句ごとに同じ旋律を繰り返す。

『三十二相』は、本曲と急曲の2種類が存在する。
本曲は延只八拍子、黄鐘調『散吟打毬楽』を伴奏しながら唱える。
この雅楽曲は、明治選定譜から外されて、長らく断絶している曲である。
湛智による『聲明用心集』には、延二拍子で唱える音曲として記されている。
即ち、4拍に8拍を加えた12拍子で唱えるのである。
本曲は合曲といって、各字ごとに呂曲・律曲・中曲の旋律が現れる。
あるいは、呂律相具した旋律も現れる。

急曲は呂曲で、同じく黄鐘調『鳥(とり)急』を伴奏しながら唱える。
『鳥急』は壱越調『迦陵頻急』が黄鐘調になると、『鳥急』という名称に変わるのである。
調子は「水調」と記されている。
水調とは黄鐘調の枝調子のことをいい、本来は律である黄鐘調を呂に転じた場合の名称である。

『三十二相』の譜面は魚山に存在するも、天台宗では長らく唱えられずに秘されて来ている。
西本願寺では第14世・寂如(1651-1725)の時代に厳修された、
宗祖親鸞の四百五十回大遠忌の逮夜法要で『三十二相』が勤められた記録があり、
その頃に魚山から伝えられたものであろう。
その後、第18世・文如(1744-1799)の時代の記録では、
毎年の御正忌報恩講の第五逮夜で勤められている。
光隆寺知影が著した『魚山余響』にも、御正忌11月25日の逮夜で勤められているとの記述がある。

しかしながら、この時代の『三十二相』は、
様々な音曲を前後に挿入しての一座の法要だったので、
『修正大導師作法』のような確定的な作法形式では勤められていない。
我々が概念するところの一連の作法として確立するのは、
第21世・明如を輩出する明治時代以降のことである。

明治に至って、『龍谷唄策』が出版されるに当たり、
巻頭の「修正会」と「妙相讃嘆会」の2作法に『三十二相』が収められた。
特に『龍谷唄策』中の「修正会」は、『修正大導師作法』にほぼ準じた法儀となっている。
即ちその次第を見てみると以下の如くである。


  ■『修正大導師作法』
   一、礼仏頌
   一、三十二相 合曲 黄鐘調 延只拍子 散吟打毬楽
   一、同 急  呂曲 黄鐘調(水調)  鳥急
   一、讃嘆頌文
   一、仏名
   一、教化
   一、表白
   一、後誓
   一、勧請
   一、六種


  ■『龍谷唄策』

  「修正会」
   一、礼仏頌
   一、三十二相 合曲 黄鐘調 延只拍子 散吟打毬楽
   一、同 急  呂曲 黄鐘調(水調)  鳥急
   一、三礼如来唄(対馬三礼)
   一、表白
   一、勧請
   一、読経 (『無量寿経』下巻 正宗分五善五悪)
         仏言汝今諸天人民 乃至 我但為汝略言之耳
   一、回向句(和順章)


  「妙相讃嘆会」
   一、三十二相 已出
   一、仏名
   一、教化
   一、嘆仏文(『五会法事讃』)


『龍谷唄策』の「修正会」は、往古の形式を踏襲しながらも、
浄土真宗に相応しい編集がなされている。
読経が入るのも、大きな特徴といえる。
また、この法要を『修正大導師作法』と、本来の名称でも呼称していたようである。
一方、「妙相讃嘆会」は、御正忌報恩講1月13日(新暦)の逮夜で勤められた。
また、顕如上人三百回遠忌法要でも用いられている。







【3】
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【4】
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【3・4】
西本願寺における現行の『修正会作法』中の音曲。
昭和8年の法式改正により、文言が改められて曲名も「頌讃(じゅさん)」となった。
「頌讃」と称する音曲名は昭和8年以降に見られ、旧「勧請」も「頌讃」という名称となり、
出自の異なる音曲同士が同じ名称になってしまったのは、紛らわしく思う。

旧『三十二相・急』は、昭和8年以降、黄鐘調から壱越調に改められている。







『三十二相』は、昭和8年の法式改正によって、大きく様相を変える。
『修正会作法』という名称に変更され、『三十二相』は「頌讃」と改称された。
旋律のみが残り、文言は『無量寿経』異訳である『大宝積経』「無量寿如来会」のものに変更された。
音曲の長さもかなり短くなっている。

ことに呂曲『急』は、黄鐘調から壱越調に変更されている。
もっとも口伝によれば、この音曲に伴奏される「鳥急」は、
壱越調・双調・黄鐘調の3つがあったとされ、矛盾はないのであろう。

ところで現行の『三十二相』改め「頌讃」延只八拍子は、
「ソリ・イロ・ユリ」の「ユリ」が「ユリ三」で唱えられている。
このことに関して先般、老師僧よりこんな話をお聞きした。

古い写本には「ユリ二」と表記されていて、上手く拍子に乗らないので不審だったという。
果たして、老師僧の師匠である中山玄雄阿闍梨は、「ユリ三」で唱えられたようだ。
確かに「ユリ三」で唱えると拍子には乗るが、「ユリ二」の問題が解決した訳ではない。

老師僧はその問題解消に研究をされていたようだが、
たまたま坂本の日吉大社に所蔵される写本を御覧になる機会があった。
果たして、そこに記されていた『三十二相』には「ユリ二・キル」となっていたという。
「ユリ二」の後に「キル」という旋律型が加わると、拍子にも合致する訳である。

西本願寺における『三十二相』改め「頌讃」も、「ユリ三」でなければ拍子には合わない。
明治時代の『龍谷唄策』からの写本【写真1-1】を見ても、
博士の終わりに「キル」がないのである。
これを見る限り明治期においても、
恐らくは西本願寺では「ユリ三」で唱えられていたのかも知れない。

昭和8年の法式改正は、ある意味において非常に原理主義的なものであった。
『三十二相』も所依の経典にはない聖教の文言とて、停廃されたのは想像に難くない。
思うに「頌讃」という呼称の是非に、今更ながら違和感を禁じ得ない。
「頌讃」と呼ぶ音曲は、他にも『大師影供作法』などにも見られる。
こちらは旧「勧請」の音曲である。
原曲も音曲の性格も異なるもの同士を、同じ名称に統一されてしまっている。
もっとも「頌讃」と名付けるしか、他に方法はなかったのであろう。
原曲やその性格を知らない今時の宗門人にしてみれば、さしたる矛盾もなく受け取れるのであろう。

ただ、元旦に西本願寺阿弥陀堂で勤められる、現行の「修正会」をみていると、
着座の形など往古の形式はそのまま踏襲されているようである。
即ち、内陣南側の回畳には、
首座に_仔、鞨鼓、助音、ぢ生檗↓ソ察↓鉦鼓の順に着座する。
往古においても、雅楽の打ち物は内陣に設え、管絃は外陣で演奏したようだ。
もっとも、西本願寺の現行作法では、打ち物のみを鳴らし、管絃の伴奏は行われない。







【5】
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【6】
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【5・6】
第14回「聲明の夕べ」の法要風景。
昨年・今年と、『修正大導師作法』が勤められたのである。
2018年1月27日撮影。







蛇足ながら、付言しておきたいことがある。
今時の真宗人にしてみれば「修正会」という名称をして、
その字面から《正月に修する法要》と思って憚らないようだ。
これは大きな誤解と言わねばなるまい。
以て、「修正会」の《修》とは、「御修法(みしほ)」のことである。
即ち、宮中御斎会を起源とする前年の罪業を懺悔滅罪し、
鎮護国家・玉体安穏・国豊民安を祈念する法要のことである。
従って、勅願寺ないし門跡寺で修される法要なるが故にその名がある。
本願寺は亀山天皇より「久遠実成阿弥陀本願寺」との勅額を受けた故事により、
「修正会」を勤めるのである。
このように書けば、全く以て浄土真宗の法義からかけ離れたことを言っているようだが、
「修正会」と呼ぶ限りはそうでなければならない法会なのである。

































知影著『魚山余響』を読む。 -35-

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明治21年に刊行された『龍谷唄策』中、「四箇法要」にある「散華」。

 一、稽首天人の偈頌ある散華を弥陀散華といひ
   天地此略の文あるを釈迦散華といふ
   本山御依用は弥陀散華なり
   元禄中魚山幸雄僧都より当山内の僧侶に授与せらるゝ本にはみな弥陀散華を書のせらる
   近代稽首天人の偈をやめられ散華荘厳の四句を用ひらる
   この散華は廣布薩式と云 唐招提寺の蔵書にものせたり
   余曾(かつ)て其写を魚山宝泉院にて披覧せり
   かの書に


   散華偈

   散華荘厳淨光明  荘厳宝花以為帳
   散衆宝華遍十方  供養一切諸如来


   今家所用と二三字相違あり 墨譜は大に異なり





                         光隆寺知影『魚山余響』



散華とは、言わずもがな諸仏諸菩薩を道場に奉請する時、
最上の恭敬の作法として花びらを散ずることである。
その時に唱える音曲が「散華」という。

魚山聲明には顕教「散華」と密教「散華」があり、『魚山六巻帖』に掲載されている。
いずれも呂曲の音曲で、顕教のものは「四箇法要」(←クリック)で用いられるものである。

また、呂曲の他に律曲による「散華」も存在する。
知影が実際に目にした、魚山の幸雄僧都が本願寺に伝えた「散華」も、呂曲と律曲の2種類があった。
『四箇法要』は「唄」「散華」「梵音」「錫杖」の4曲を中心に構成される作法であるが、
現在の魚山では呂曲の「唄」と「散華」が唱えられる。
律曲の「唄」と「散華」は、廃絶に近しい状況といえようか。

「散華」は顕教も密教も、「唄」を伴いながら唱えられる音曲である。
即ち、顕教では「始段唄」を、密教では「云何唄」が唄師によって独唱される途中から、
散華師が起立して句頭を独唱し、大衆唱和となる。

密教・顕教とも「散華」には、道場に奉請する教主たる本尊の名前が挿入される。
そして、教主に関する経論の文言を伴うのである。

即ち、この音曲は上・中・下段で構成され、以下の如くである。

 
 【上段】

  願我在道場
  香華供養仏  (『金剛頂経』とされる)

 【中段】

  以下に詳説する。


 【下段】

  願以此功徳
  普及於一切
  我等与衆生
  皆共成仏道 (『法華経』化城喩品)


  香華供養仏



【中段】の文言は、以下の如くである。


  天地此界多聞室
  逝宮天処十方無
  丈夫牛王大沙門
  尋地山林遍無等 (以上、「釈迦散華」 出拠『倶舎論』18)


  薬師瑠璃光如来
  大慈大悲照光明
  良与法薬救衆生
  故我稽首瑠璃光 (以上、「薬師散華」 出拠『薬師如来本願経』とされる)


  稽首天人所恭敬
  阿弥陀仙両足尊
  在彼微妙安楽国
  無量仏子衆囲繞 (以上、「弥陀散華」 出拠『十二礼』)

  
  帰命毘廬舎那仏
  身口意業遍虚空
  演説如来三密門
  金剛一乗甚深教 (以上、密教「大日散華」 出拠『金剛頂三摩地法』)
  

  香華供養仏 



『魚山六巻帖』に見える文言は以上で、その他に「観音散華」「弥勒散華」も存在するという。
この音曲も、全段実唱すると相当に長いものであり、
法要の軽重によって【中段】や【下段】を略して唱えられている。
また【中段】の場合、旋律をある程度省略して唱えられる。 

本文にもあるように、
「散華」【中段】の「稽首天人所恭敬」以下4句の文言のものを「弥陀散華」と通称している。
西本願寺が魚山聲明を採り入れた当時の、西本願寺に所蔵される幸雄僧都自筆の聲明帖にもこれが存在する。
そしてその後、知影のいう《近代》に至って、文言が変化した。
確かに文化元(1804)年刊の3冊本『聲明品 前集』にある「散華」は、
【中段】が「散華荘厳淨光明」以下4句の文言を載せている。
安政4(1858)年に発刊された4冊本『聲明品』にある「散華」は、
【上・下段】のみが掲載されている。  

そして明治の『龍谷唄策』に至っては、善導大師の『浄土法事讃』の文言へと変化している。
『龍谷唄策』に関しては、当時の門主である明如の意向によるものと考えられ、
一つの作法として一連の流れを確立させる過程において、
魚山宝泉院の園部覚秀が新たに編纂した音曲なのであろう。
あるいは『龍谷唄策』中「光明唱礼」と称する作法には、
【上・下段】を除いた「散華」と称する音曲があり、これには「散華荘厳淨光明」の文言を用いている。
【下段】も『聲明品 前集』までは『法華経』の文言をそのまま用いていたが、
『龍谷唄策』では善導大師『観経疏』にある、
浄土真宗で一般的に用いられる回向の文言に替えられている。







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『魚山余響』に見える、知影が書き写した「散華偈」。






「散華荘厳淨光明」以下4句は、『華厳経』「賢首菩薩品」に見える文言である。
「散華偈」と称するこの文言は、知影が言うように広布薩式で用いられる。
布薩とはサンスクリット語《uposatha》の音写語で、説戒のことである。
即ち戒律を犯した僧侶が懺悔する儀式であり、中国では唐代に盛んに行われたという。
日本でもこれが受け継がれ、臨時に行う大規模な儀式を「広布薩」あるいは「大布薩」という。
そして月に2度行うことを「略布薩」という。

知影は律宗の本山である唐招提寺の蔵書に、この文言を載せるものがあると記している。
唐の律宗の僧・道宣(596-667)による、『四分律刪繁補闕行事鈔』を指すのかかも知れない。
この書には「散華莊嚴淨光明 莊嚴寶華以爲帳 散衆寶華遍十方 供養一切諸如來」とある。
知影がいうように、確かに文言の相違があるようで、
同じく唐代の道世による『諸經要集』『法苑珠林』には、
「散華莊嚴淨光明 莊嚴妙華以爲帳 散衆雜華遍十方 供養一切諸如來」と記されている。

知影がここに記す博士の付けられた「散華偈」は、宝泉院で見たものを写している。
恐らくは、当時の天台宗の広布薩で唱えられていた音曲なのであろう。
果たして、『聲明品 前集』『龍谷唄策』に見える文言は、
「散衆雜華遍十方」の方を用いている。
































■知影著『魚山余響』を読む。
■知影著『魚山余響』を読む。-2-
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■知影著『魚山余響』を読む。-34-

嵯峨野、嵐山。-嵯峨釈迦堂雑想-

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最近の父親は、自身にとって懐かしい場所へ行きたがる。
それは決して昔訪れた場所とは限らないが、
父親の中で出来上がっている感覚的なものである。

春めいた暖かさが、梅を開花させている。
父親が嵯峨釈迦堂へ行きたいと言うので、付き合った。

嵯峨釈迦堂こと清凉寺の本尊、栴檀瑞像と称される釈迦如来像は、
昨秋開催された「国宝展」にも《出開帳》された仏像である。
この釈迦如来は開基・然大徳によって、宋から請来された唐代の仏像である。
私はこの釈迦如来像こそは、中国・唐にもたらされたガンダーラ仏の模刻だと考えている。
中国で造られた仏像ながら、その容姿はとてもエキゾチックで西北インドのスタイルを思わせる。
大乗仏教が西北インドから中央アジアの難路を越えて中国に伝わり、
さらに朝鮮半島を経て、この極東の日本に至った足跡を感じさせられる。
まさに、三国伝来といわれる所以である………。


しばし嵯峨釈迦堂へ参った後、清滝トンネルをくぐって清滝まで足を延ばした。
父親によれば、小学生の頃に遠足で来て以来だという。

当時、清滝へは清滝電鉄という路線が嵐電・嵐山駅から分岐していた。
父親はそれに乗って、清滝まで行ったそうだ。
清滝電鉄は、愛宕山参詣に便を図るために建設された3丗らずの鉄道だったが、
戦時中の昭和19(1944)年に遊休路線として廃止された。
清滝電鉄の線路跡地は今、「清滝道」という道路になっている。
清滝トンネルが交互一方通行なのは、単線の鉄道用として掘られたからである。

清滝へ行ってから、渡月橋を眺めたいと言い、大堰川のほとりまで行った。
私は51年前に生まれた当時、阪急嵐山駅のすぐそばの嵐山茶尻町にいた。
父33歳、母28歳の頃である………。







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ところで嵯峨釈迦堂には、思い出がある。
小学生の頃の私は嵯峨野や嵐山の風光とともに、この辺りに点在する寺院が大好きだった。
二尊院や化野念仏寺など、しばしば母親に連れられて行ったものである。
それらの中で特にインパクトが強かったのは、やはり嵯峨釈迦堂の本尊である。
日本で造られた仏像とは異なる印象が、小学生の私にも見てとれた。

確か、小学2年生くらいの頃だったかと思うが、
母親とひとしきり嵯峨野散策をして夕方近くに釈迦堂へたどり着いた。
夕事勤行が終わったくらいに本堂へ上がったので、既に拝観時間は過ぎていたと思う。
しかし勤行を終えた若い僧侶が、快く釈迦如来像を見せてくれた。
母親も丁重に礼を言っていたと思う。
帰り間際、その僧侶は釈迦如来像の尊前に供えてあったリンゴを1つ取って、
「お釈迦さんからやで」と微笑みながら私に持たせてくれたのだった。
何気ない思い出ではあるが、
嵯峨釈迦堂というと、幼い日にリンゴを貰った時の記憶が必ず去来するものである。
それもまた、宗教的情操を育むよすがになったのはいうまでもない………。

本堂の東側に経蔵がある。
「転輪蔵」と呼ばれる建築で、我が本山西本願寺(←クリック)にも同じ構造の経蔵かある。
蔵内の経巻を収める書架が、回転式の六角形である。
ここの経蔵ばかりは、回転をさせてくれる。
そしていつも、浄土宗の聲明のCDが流れている。
この日に訪れて気付いたのだが、流れていたのは『往生礼讚・初夜偈』だった。
我が宗門も『往生礼讚』を唱える。
その哀調を帯びた豊かな旋律は、浄土宗も我が宗門も変わりない。

そんな思いを抱きつつ、
帰宅してから使い古した礼讚本を眺めていたら表紙を直したくなった。
貰い物の有職のキレで貼り替えたら、ちょっと見違えるように立派になった(笑)。







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■写真■
京都市右京区嵯峨の嵯峨釈迦堂および渡月橋にて、2018年2月27日撮影。

【INDEX No.116】 アーカイブスガイド

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■山科駅を通過する大阪行「トワイライトエキスプレス」、廃止前の最後の勇姿。2015年3月2日撮影。■   

■巻頭言 『折々のことば』  …(ランダム更新)

梅の花が咲き始めている。
1ヶ月も経たない内に、桜もほころび始めることだろう。
先日、母校の本館講堂で、大学時代の恩師の追悼法要が有志主催で執り行われた。
法話の中で、亡き恩師は新たな学説を提示されていたことをここで知った。
サンスクリット語《sat-puruṣa》とは「善き人」と訳される言葉で、
漢訳経典に見える「善男子善女人」に通ずる言葉であるのに想像は難くない……………  
(続きを読む↓↓)

◆-TOP INDEX 巻頭言-◆ ←←←クリック


■『仏教の小箱』より■

◆深山の幽谷。-叡山黒谷青龍寺への道-
◆一条の光明。
◆月影の・・・・・・。
◆西の湖残照。-無明の夜に…-
◆親鸞の休暇。-帰洛後異聞-
◆酒はこれ忘憂の名あり。
◆無碍難思の光耀。
◆生死の苦海。
◆流刑地への途上。-法然上人へのオマージュ 2-
◆礼拝(らいはい)の意味。-曇鸞大師に聞く-
◆自然法爾(じねんほうに)に思う。
◆「まあ、さてあらん…」
◆功徳天女奇譚。-親鸞妻帯へのメタファー-
◆阿闍世の救い。-「総序」によせて-
◆永遠(とわ)ということについて。
◆「悲」と「哀」。
◆「Jupiter」。
◆袈裟。
◆「三途の川」。
◆独り来たりて独り去る…。
◆ゆかりの人のあととおもへば…
◆涙。
◆「極楽世界」。
◆「宿善」考。-覚如と唯善の法論-
◆「善光寺の本願の御房」。
◆「懺悔(さんげ)」。
◆例えば「自然」という言葉をめぐって…。
◆自然のやうをしらせん料なり…
◆龍樹菩薩雑想感。-輪廻と涅槃-
◆親鸞が見る“他宗”。
◆外現賢善精進、内懐虚仮。
◆比叡山での親鸞。
◆百石讃嘆(ももしゃくさんだん)。
◆還来生死輪転家…
◆釈尊の巧言。-極楽の九品は弥陀の本願にあらず…-
◆回心(えしん)について。
◆法に依りて人に依らざるべし…
◆「応病与薬」。
◆仏法を語ること、聞くこと。-灌仏会に…-
◆「自受法楽」ということについて。
◆はじめて見たつる…
◆法然の師僧。
◆『無常講式』雑想感。
◆慈覚大師の九条袈裟。-法然、円頓戒の系譜-
◆予が遺跡… -法然の遺言-
◆蓮如の願い。-御文「睡眠章」-
◆多々のごとく、阿摩のごとく…
◆善信が身には、臨終の善悪をば申さず…
◆二者深心に思う…。
◆阿闍世考。
◆流転輪廻。
◆初夜無常偈。
◆『往生礼讃』「発願文」。
◆後夜無常偈。
◆凡夫、ねたむこころおほくひまなくして…
◆『中論』雑想。-聖道と他力-
◆続・『中論』雑想。-聖道と他力-
◆そのたましゐ蝶となりて…。








■『京都つれづれ…。』 ・ 『タウン誌「京都トゥモロウ」』より■

◆「祇園御霊会」雑想感。
◆五山送り火。
◆京都御所。 -自転車の轍(わだち)-
◆山中石仏小秋。
◆「そうだ京都、行こう」。
◆禅刹錦秋。-東福寺-
◆清水寺秋景。
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◆安朱の桜、ゆく春に…。
◆祇園祭・宵々山。
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◆祇園御霊会・山鉾巡行。
◆祇園御霊会・山鉾巡行。-補遺-
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◆浄土感応。-平等院浄土幻想…。2-
◆上賀茂紫景。
◆妙顕寺錦秋。
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◆我が本山…西本願寺御影堂。
◆中京・東洞院の仏書林。-平楽寺書店-
◆渡月橋初夏涼風。
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◆山科の地蔵盆。-徳林庵・回り地蔵-
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◆「証拠の弥陀」。-魚山勝林院-
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◆魚山實光院緑萌。
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◆安朱遊行。-蹴上から山科への径…-
◆魚山錦秋。
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◆神宮道界隈を歩く…。
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◆「魚山宝前」。
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◆祇園御霊会、後祭山鉾巡行。
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◆魚山秋色点描。
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◆山科地蔵。-地蔵盆の夜に想う…-
◆祇園御霊会・前祭宵山。
◆祇園御霊会・後祭宵山。
◆日野の里、晩秋。
◆東本願寺御影堂夕照。
◆西本願寺御正忌雪景。
◆三室戸寺早春寸景。
◆鷲峰山金胎寺。
◆法藏館の土蔵。-東本願寺前の仏書林-







■ご挨拶■
稽首m(_ _)m。
駄文と写真で好き放題、書き付けてるブログです。
仏教・芸術・京都のことなどを中心に書いておりますが、時として“鉄道ブログ”に変貌致します。
悪しからず…。(ファン限定記事もあります。)

知影著『魚山余響』を読む。 -36-

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  一、同記に作相の事あり
    一番作相従大至小二十下二反
    二番作相従大至小二十下三反
    露地偈作相従小至大四十下一反
    三千威儀経説
    斎会布薩臨作相

      従小稀至大二十下

      復大三下


    右記奥書
    寛政丙辰春以蔵松院元瑞比丘本宏謹謄
    





                          光隆寺知影『魚山余響』



作相(さそう)とは、図版の如く鐘を打ち上げて打ち下げる所作をいう。
ここにいう「同記」とは、唐招提寺の蔵書たる「広布薩式」のことを指すのであろう。
奥書に見える「蔵松院」とは、唐招提寺境内に所在する塔頭の名称である。
布薩の儀式が行われる際、鐘が打ち鳴らされる所作をここに書き留めていると考えられる。
一番鐘、二番鐘にそれぞれ作相の所作があり、
最初に唱えられる「露地偈」にも作相が伴うという。

「露地偈」とは、

  降伏魔力怨 除結尽無餘
  露地撃犍稚 比丘聞当集
  諸欲聞法人 度流生死海
  聞此妙響音 悉当雲集此

の8句から成る文言である。
鐘を打ち鳴らす作相は警覚させるものとして、「露地偈」に対応するのであろう。
 
そして「三千威儀経」とは安世高が漢訳した『大比丘三千威儀』のことで、戒律経典の1つである。
この経典にも、僧侶がなすべき生活規範が事細かに記されているのはいうまでもない。
親鸞が著した『唯信鈔文意』に見える、「三千の威儀」もこれに受けたものであろう。



ところで作相という作法は、現今の浄土真宗では葬儀で行われるのみといっても過言ではない。
西本願寺では「作相」と表記するが、
東本願寺(真宗大谷派)では「三匝」「左相」と表記する。
西本願寺の聲明家・弘中純道師は、
ある地方で「サンソウ」と呼んだりするがこれは転訛であると、
その著書『浄土真宗本願寺派 勤式作法の書』で言及ている。
恐らくは、大谷派における漢字表記が由来なのかもしれない。

現行の東西本願寺における葬儀の原形は、本願寺第8世・蓮如の葬儀による。
それまでの本願寺歴代の葬儀は『往生礼讃偈』が依用されていたが、
蓮如の葬儀から『正信偈(舌々・ぜぜ)』に和讃3首を添えて勤められることとなった。
蓮如の葬儀において、作相があったかどうかは、『蓮如上人御往生記』には見えない。
ただ、「葬送ノ事御中陰儀在別紙」とあるので、それには記されているのかも知れない。
蓮如の継室・蓮能尼の葬儀(『蓮能御往生記』)に「サゝウ」と表記され、
荼毘に付した後の拾骨した時の勤行に先立ち、「作相」があったようだ。

本願寺第9世・実如の葬儀の模様を記した、
『実如上人闍維中陰録』には比較的詳しい記録が見える。
実如の葬送の時、阿弥陀堂門の前から「時念仏(路念仏)」が唱えられ、
1句ごとに鈴(リン)を打ちつつ火屋(荼毘所)まで続いた。
またその道行きにおいてであろう、「サゝウ」が行われている。

あるいは蓮如の末子・実従(順興寺開基)の葬送の記録である、
『順興寺実従葬礼幷中陰記』にも「サゝウ」の記述が見える。
本堂で「十四行偈」が勤められた後、亡骸を収めた柩は輿に乗せられて葬所へと運ばれた。
その道行きには「時念仏」が唱えられ、「サゝウ」が行われている。
そして葬所、即ち火屋での「葬場勤行」に先立ち、調声人(法専坊賢勝)が焼香を行い、
従前の如く「サゝウ」が行われているのである。

こうした古記録の記述から、いろいろ思い当たることがある。
かれこれ30年近く前のことであるが、滋賀県の寺で法務に従事していた頃のことである。
私がしばしば鏧役(きんやく)に命じられた。

当時はまだ自宅葬が主流で、広い仏間で葬儀が行われるのであるが、
初めにその家の御内仏(仏壇)の前で出棺勤行である「十四行偈」が勤められる。
これが終わると、僧侶は御内仏の前を外した傍らに安置される棺桶の前へ転座する。
転座するとすぐに作相を行うのである。
鏧を1打した後に連打して打ち上げ、そして打ち下ろして1打すると「路念仏」が唱えられた。

「路念仏」は1句ごとに鏧を打ち、4句唱えて終わる。
4句1サイクルの念仏を「路念仏」といい、以上の古記録に「時念仏」と表記されたのは、
恐らくは一遍を宗祖と仰ぐ時宗から伝えられた念仏曲であるからだと思われる。
「路念仏」に引き続いて西本願寺たる我々は、「三奉請」を唱える。
「三奉請」を唱え終わると改めて作相を行い、導師焼香となるのである。
現今に定められる西本願寺の法式規範では、
「三奉請」唱和の後に行う導師焼香の時にしか作相は行われない。
従って、1打して打ち上げ、焼香、打ち下げて2打で作相は終わるのである。

翻って東本願寺の葬儀を見てみると、
「路念仏」に先立ち作相たる「三匝」が始まり、
1度目の打ち上げ打ち下ろしが終わって「路念仏」が唱えられる。
「路念仏」が終わると2度目の打ち上げが行われて導師焼香、打ち下げとなる。

この所作こそは往古の形を伝えるものであり、
私が若かりし頃に行っていた滋賀県の西本願寺末で行われた作相の方法も、
東本願寺のそれに等しきことなのだと思う。

とかく浄土真宗の葬儀は、他宗派にいわれる「引導を渡す儀式」という概念は皆無である。
あくまで、阿弥陀仏の化導によって生きて来た我が身の、
娑婆での最後の勤行としての仏恩報謝に尽きるものである。

しかし想像の域を全く出ないことではあるが、
作相の原形が「布薩」に求められるとするならば、
恐らく覚りを得させるための警覚的意味合いのものが、
浄土真宗に採り入れられたとは考えられないであろうか……。



ややもすれば、『魚山余響』そのものから外れる内容になってしまった。
果たして「作相」という法儀をキーワードに、
少しく浄土真宗で行うこの所作について思いを巡らせてみた次第である。









  
   



































■知影著『魚山余響』を読む。
■知影著『魚山余響』を読む。-2-
■知影著『魚山余響』を読む。-3-
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■知影著『魚山余響』を読む。-30-
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■知影著『魚山余響』を読む。-34-
■知影著『魚山余響』を読む。-35-

におの浜早春。-琵琶湖開きの頃に-

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昨日、父親とともに甲賀市信楽のMIHO美術館(←クリック)へ内覧会を見に行った。
父親を連れて行くのは、1年ぶりのことである。
この日の信楽は、生憎のみぞれが降るような天候だった。

ふと、1年前の記憶が甦る。
ちょうど琵琶湖開きの前日だったかと思うが、
信楽から帰ってくる途中、夕方の渋滞を避けてにおの浜の湖岸を走った。

季節外れの花火が打ち上げられていて、
比叡山の向こうに沈む早春の残照とともに美しく映えていた。
思わず車を停めて、手持ちのスマホでシャッターを切ったのである。


























■写真■
滋賀県大津市におの浜の湖岸にて、2017年3月17日撮影。

知影著『魚山余響』を読む。 -37-

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【2】
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【1・2】
恐らくは文化元年に発刊された3冊本『聲明品』の書写と思われる写本に見える「往還偈」。
これが安政本『聲明集』に至って、本来の正式名称である「二門偈」と表記されるようになる。
そして明治になって発刊された『龍谷唄策』では、譜面も「文類偈」の譜に改められる。

  一、本山往還偈願生偈は魚山珍雄の墨譜也
    余宝泉院に於て其草本を見る
    往還偈の奥に此本者就西本願寺御門跡三回忌墨譜依懇望以光明真言新記之

    享保十二丁未稔二月下旬
               魚山大僧都珍雄 


    願生偈

    此本は就西本願寺先御門跡三回忌墨譜依懇望以功音錫杖新書之畢


    享保十二丁未稔二月 日
               大僧都珍雄
  
    
    右信解院殿御三回忌の時なり
    信順院殿御望に依り製せられるなり
    珍雄は后に城南院大僧正と申す
    幸雄の弟子なりときゝつたへたり
    此二本ともに墨譜妙ならず 
    ことに願生偈はをしむべきものなり
    后の達者思釈すべし


 





                          光隆寺知影『魚山余響』



この条文から以下は、いくつかの聲明曲が列挙されて作成の経緯が記されている。
現代まで引き継がれている音曲もあれば、廃絶して幾久しいものもある。

「往還偈」とは「入出二門偈」のことで、幕末頃まではそう呼ばれていたようだ。
安政本『聲明集』からは、「二門偈」と表記されている。
「願生偈」は世親菩薩が著した『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)』のことである。
浄土真宗では「三経一論」といわれるが如く、宗祖親鸞が最も重要視した経論であるが、
西本願寺ではついぞ唱えられなくなった。
もっとも『往生礼讃・後夜偈』が「願生偈」に依ったものであるから、
それで事足ると見なされたのだろうか。

この二つの音曲は西本願寺第14世・寂如(信解院)の三回忌に臨み、
いずれも享保12(1728)年2月に魚山珍雄(-1769)が譜を付けたものである。
珍雄は、西本願寺に魚山聲明を伝えた幸雄(1625-1702)の弟子である。
元禄元(1688)年に得度し、明和5年に85歳で示寂していると、『両院僧坊歴代記』は伝える。
珍雄の院室号(←クリック)を、城南院という。
あるいは仏眼院とも号した(『両院僧坊歴代記』)。
幸雄以来、西本願寺へは珍雄、嶺雄、韶雄ら魚山宝泉院の歴代が聲明の指南に訪れている。
知影の師匠である知観僧正は、嶺雄の兄弟弟子である理覚房貞健-仙恵と相承した法脈に連なる。
また、明治に至って『龍谷唄策』を編纂した園部覚秀は、
知観僧正の弟子・秀雄の弟子である。
これらの法脈によって伝えられた西本願寺の聲明は、魚山下之房の譜面を伝承したものといえる。
魚山聲明は来迎院を本堂とする上之房と、勝林院を本堂とする下之房とに分かれ、
聲明の譜面も上と下とで口伝による相違があり、表記される譜面も異なるのである。

「往還偈」は「光明真言」の譜を移したものと、珍雄は奥書に記している。
「願生偈」は、「九条錫杖」の譜に依っている。
「往還偈」はその後、本来の名称である「入出二門偈」と改められ、
『龍谷唄策』に至って『文類偈』の博士に書き改められている。

知影はこれら2つの音曲の草稿本を、宝泉院で見たようである。
しかし知影は、幸雄の弟子である珍雄にしては、
その博士などの書き様が「妙ならず」と酷評している。
特に「願生偈」は、残念でならないと言う。
そして後世の聲明を学ぶ者は思いを致すべきだと書き留めている。















【3】
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【4】
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【3】
同じく「願生偈」。
この写本は、ところどころ博士の相違は見られるものの、比較的美しい筆致で書かれてある。
【4】
『龍谷唄策』所収の「願生偈」である。
以て、魚山珍雄が作譜したものを踏襲している。




















■知影著『魚山余響』を読む。
■知影著『魚山余響』を読む。-2-
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知影著『魚山余響』を読む。 -38-

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【1】
魚山・幸雄自筆の「讃仏偈」。
【2】
安政本『聲明集』所収の「讃仏偈」。
1句目・調声部分に入れられた朱の博士は、
『龍谷唄策』所収の「讃仏偈」の博士を書き入れたものである。
園部覚秀は『龍谷唄策』編纂に際し、「讃仏偈」の冒頭に経題を加えている。
従って1句目から同音(大衆唱和)となるので、博士も書き換えたのであろう。



  一、讃仏偈文類十四行偈「呂律着座讃」敬礼勧請式間和讃は幸雄の墨譜なり  
    讃仏偈は法華懺法経段呂の墨譜によれり
    文類は五念門と(此間脱字あるか)画をあはせとると見へたり
    十四行偈は懺法例時経段をあはせとれり
    着座讃は呂律とも四智漢語の讃をとり用ゆ
    敬礼勧請式間和讃はよりどころたしかならず
    幸雄の工夫と見へたり
    幸雄は近代の聲明の達者なり
    ことに聲明帳を書写すること妙を得たり
    墨譜のすがたもっとも自然の勢あり
    この后これに及べる人なし
    魚山宝泉院には幸雄の住せられたる寺ゆへ其手筆の聲明帳あまたあり
    吾山内にも端坊仏照寺西光寺には幸雄のかかれたる本あり
    江州本福寺法蔵寺大阪浄照坊などにもこれあり
    余も如来唄呂律幸雄手書の本を観心院僧正より授与せられ秘蔵せり




 


                          光隆寺知影『魚山余響』




「讃仏偈」
「文類」
「十四行偈」
「呂律着座讃」
「敬礼勧請」
「式間和讃」

ここに挙げられている音曲は、西本願寺が本格的に魚山聲明を採り入れた時、
初めに魚山の幸雄が聲明帳を作成して、時の法主・寂如に上程したものに収録されている。

幸雄の筆跡は大変見事で、知影もさすがに舌を巻くほどである。
自然の勢いがあり、後世これに及ぶものはないとすら言及する。

魚山宝泉院は、かつて幸雄が住持した寺であるので、幸雄自筆の聲明帳が多く残されていた。
知影は、親しくこうした写本を見ていたに相違ない。
あるいは宗門内における、端坊・仏照寺・西光寺・江州本福寺・法蔵寺・大阪浄照坊なども、
幸雄自筆の聲明帳を所蔵していたようだ。
特に端坊や西光寺は、ともに西六条御内に位置した本山御堂衆を務めた寺院である。   
また知影自身も、師匠である知観僧正より幸雄自筆本を貰い受けて所持していた。
   
「讃仏偈」は、『聲明懺法・呂』(←クリック)の経段を移したものである。
博士が付けられた「讃仏偈」は、その後は変遷をたどって、
今は後述する「重誓偈」と同じき博士に改められている。
幸雄が作成した当時は経題が付いていなかったが、
『龍谷唄策』に至って本文に先立ち「仏説無量寿経」の6文字が加えられている。
そして澤円諦や柱本瑞雲などによって編纂された『龍谷梵唄集』では、
「重誓偈」の博士に統一され現代に至っているのだ。

「文類」は『大師影供作法』における、「念仏正信偈(文類偈)」のことである。
現在の『大師影供作法』で唱えられる「文類偈」は、
通称は「十二礼譜」などといわれる、『例時作法』巻末「五念門」の博士を転用したものである。
これも『龍谷梵唄集』より改譜されている。
『龍谷唄策』の時代までは、
知影がいう『聲明例時』における「五念門」の譜をアレンジしたものを用いていた。
確かに「五念門」とほぼ対応する譜面なのであるが、
実際に唱えてみると、「五念門」のように唱えやすさに欠けるのである。
あるいは「五念門」にはない、違和感のある旋律が出て来たりする。
10年ほど前、これを師僧の下で復元したことがあったが、
何やら唱えにくかったことをよく記憶している。

「著座讃(ちゃくざさん)」は所謂、密教唄である。
『曼荼羅供』などの密教立て法要の、最初に唱えられるのが「四智讃梵語」である。
現在、西本願寺大谷本廟の報恩講「龍谷会」で唱えられる、「五眼讃」の原曲である。
「四智讃梵語」引き続いて唱えられるのが「四智讃漢語」で、これを「著座讃」と通称する。
西本願寺へ伝授するに当たり、幸雄は唐・善導大師の『浄土法事讃』にある文言を転用している。
「四智讃梵語」も「同漢語」も、ともに呂曲と律曲の2様が存在する。
幸雄は双方の博士を付けて作成している。

ところで現在の魚山では、律曲の「四智讃梵語」「同漢語」をほとんど唱えることがない。
いずれも律曲の方は、「スク」と「小由」の旋律型が多い。
ここに現れる「ユリ」も、恐らくは「律ユリ」で唱えられていたのかも知れない。
「四智讃梵語」のみは『涅槃講式』に見られ、私も魚山で手ほどきを受けたことがある。

「十四行偈」は善導大師の『観経疏』中、「玄義分」初めにある「帰三宝偈」のことである。
本願寺では第8世・蓮如の時代から、葬儀に先立つ出棺勤行で盛んに勤める偈頌である。
以て、現在でも出棺勤行に勤めるよう定められているが、
魚山から聲明が伝えられて以来、昭和8年の法式改正の頃まではその他の法要でも用いられた。
大谷本廟でも、盂蘭盆会の一座経などで唱えられていると聞く。
「十四行偈」もまた、『聲明懺法・呂』の経段の博士を「あはせとる」とある。
「あはせとる」とは、アレンジするような意味合いと考えられるが、
『聲明懺法・呂』を見る限りでは、むしろ「六根段」の旋律に近しいと思われる。
その後、『龍谷唄策』を見ると「十四行偈」は、
『聲明懺法・律』の経段に対応する博士に書き改められている。

ちなみに『聲明懺法・呂』の経段を踏襲するものは、
「円光大師会作法」中にある「三選章」のみである。
これは『龍谷唄策』にある「知恩講」以来そのままである。
恐らくは魚山の園部覚秀が、『聲明懺法・呂』から新たに転用したと思われる。







【3】
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【4】
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【5】
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【3】
幸雄自筆の「十四行偈」。
【4】
同時代の書写本に見える「十四行偈」。
【5】
『龍谷唄策』所収の「十四行偈」。
博士が律曲のものに書き換えられている。
即ち、『聲明懺法・律』の経段に対応する博士と考えられる。







さて、知影も首をかしげているのは「敬礼勧請」「式間和讃」の原曲が解らないことである。
ところで「勧請」と呼ばれる音曲は、いくつも存在する。
文化元年刊3冊本『聲明品』には「敬礼勧請」と同じ文言のものが1曲、
安政本『聲明集』には6曲が収録されている。
即ち、「三世仏勧請(本・略)」「我弟子勧請」「随喜勧請」
「我比丘勧請」「敬礼勧請」「我今勧請」で、文言も多岐にわたる。

幸雄が作成した「勧請」も3曲に及ぶ。
しかし文化元年本には、幸雄本とは異なる博士が付けられている。
そして安政本に至っては幸雄本の文言を散りばめながら、違った文言で構成されている。
こと、安政本の「敬礼勧請」なる音曲は、幸雄本にある「勧請」の曲中にも見えるが、
博士が全く異なるのはいうまでもない。
「勧請」に関しては、非常に複雑な変遷があったと見える。

「式間和讃」もまた謎に満ち満ちた音曲であるが、
この音曲ばかりは幸雄が作成して以来、現在も同じ博士のものを用いている。
「早引和讃」にほぼ同じき旋律である。
もっともその唱えぶりは、幸雄の時代のままとは言い難いであろう。

近年の研究書などをひもとくと、
「式間和讃」に付けられた旋律(=早引和讃)は、
真言宗や南都六宗薬師寺の「四座講和讃」や法隆寺の「太子和讃」に近似し、
興福寺に所蔵される篳篥譜を付けた鎌倉時代の「涅槃講和讃」に近しいという。






【6】
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【7】
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【8】
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【9】
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【6】
幸雄自筆の「式間和讃」。
【7】
『龍谷唄策』所収の「式間和讃」。
右側のページには、「八句念仏」が式間念仏として掲載されている。
ちなみにこの「式間念仏・和讃」こそは、東本願寺における『坂東曲』に相当する。
西本願寺では、元禄元年の御正忌報恩講を以て『坂東曲』が停廃された。
翌年の御正忌からは魚山聲明の譜面に依った、
「式間念仏・和讃」が唱えられるようになったのである。
西本願寺第14世・寂如による法式改革は宗門内の騒動にも発展し、
旧来の本願寺聲明を伝える「五箇寺」が西本願寺を離脱して東本願寺へ帰参したのである。
【8】
同じく『龍谷唄策』所収の「文類偈」。
【9】
幸雄自筆の「勧請」。































■知影著『魚山余響』を読む。
■知影著『魚山余響』を読む。-2-
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■知影著『魚山余響』を読む。-37-

知影著『魚山余響』を読む。 -39-

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【1】
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【2】
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【3】
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【1・2】
文化元年刊3冊本『聲明品』あるいは安政本『聲明集』からの書写本と考えられる、
聲明帳に見える「重誓偈」。
現行の「讃仏偈」「重誓偈」は、この博士を踏襲している。
【3】
安政本『聲明集』に掲載されている、「重誓偈」の原曲となった「大懺悔」。
文化年中の頃より、『聲明例時』が西本願寺でも盛んに勤められるようになり、
それとともに同作法にある「大懺悔」だけを唱えることも多かったのであろう。
文化元年刊『聲明品』には掲載されていないが、安政本『聲明集』には、
「例時弥陀経」とともに掲載されている。
ちなみに『例時作法』は、澤円諦編纂『龍谷梵唄集』に収録されているが、
大幅な変更がなされていて「大懺悔」は『往生礼讃』の「略懺悔」に差し替えられている。

  一、重誓偈は大懺悔による
    十方念仏は早懺法の十方念仏による
    余宝泉院に於て其草本を見る
    作者の名はしれず







                          光隆寺知影『魚山余響』



「讃仏偈」「重誓偈」は、ともに『仏説無量寿経』巻上にある偈頌(げじゅ・詩文)である。
さらに同経巻下には「東方偈」という偈頌がある。
これらの偈頌に旋律を付けて唱えるのは、浄土真宗では西本願寺と興正寺だけかも知れない。
もっとも「東方偈」に関しては、現在では葬儀に先立つ、
亡骸を柩に収める時の納棺勤行で唱えることしかないと思われる。
しかしながら、今時の葬儀社主導による一連の葬送儀礼において、
「納棺勤行」という概念すら希薄であろう。
従っていよいよ「東方偈」そのものが、唱えられなくなっていると言えよう。
以てここで依用する「東方偈」は、旋律の付かない棒読みである。

さてここでは、「重誓偈」と「十方念仏」について記されている。
「重誓偈」は『聲明例時』(←クリック)中にある、
「大懺悔(おおえさんげ・おいさんげ)」の博士を移したものである。
先にも記した如く、「讃仏偈」は『聲明懺法・呂』にある音曲から博士を移していて、
「重誓偈」の旋律とは異なっていた。
しかし、澤円諦編纂の『龍谷梵唄集』から旋律が「統一」され、
「讃仏偈」も「重誓偈」と同じく「大懺悔」の博士が用いられるようになったのである。
「大懺悔」は律曲であり、それの博士を採っていることから、
今時の西本願寺では棒読みの場合と区別するために、「讃律」「重律」と呼び習わされている。

「大懺悔」が西本願寺で用いられるようになったのは、
恐らくは知影がしばしば『例時作法』に言及しているように、文化年中からだと考えられる。
文化元年刊・3冊本『聲明品』には「大懺悔」は掲載されていないが、
安政本『聲明集』から「例時弥陀経」とともに掲載されている。
「例時弥陀経」は『聲明例時』の経段のことで、それがそのまま掲載されている。

「十方念仏」は、魚山聲明では「しほうねんぶつ」と呼んでいる。
漢音読みで「十方」を「しほう」と発音する。
恐らくは西本願寺に伝えられた「十方念仏」も、往古は漢音で唱えられていたと思われる。
これは「早懺法」、即ち切音(きりごえ)の『法華懺法』の博士を移したものである。
天台宗では「朝、懺法(法華) 夕、念仏(例時)」といわれる如く、
朝に『法華懺法』を勤めて夕方に『例時作法』を勤めるのが日々の勤行である。
これら勤行を略式の旋律である、切音で唱えるのである。



『法華懺法』における文言は、以下の如くである。

   南無十方仏         (なもしほうふ)
   南無十方法         (なもしほうはう)
   南無十方僧         (なもしほうそう)
   南無釈迦牟尼仏      (なもしほうせきゃぼじふ)
   南無多宝仏         (なもたほうふ)
   南無十方分身釈迦牟尼仏  (なもしほうふんじんせきゃぼじふ)
   南無妙法蓮華経      (なもべうはうれんぐわけい)
   南無文殊師利菩薩      (なもぶんじゅしりほさ)     
   南無普賢菩薩        (不読)
   南無普賢菩薩        (なもほけんほさ)



十方とは東・西・南・北の四方、
北東・南東・南西・北西の四隅と上・下を一般的に指す言葉であるが、
要するにあらゆる方向におわす仏菩薩を帰依礼拝する意味である。
大乗仏教の仏陀観を表す念仏と言って差し支えなかろう。

この念仏曲が名称もそのまま西本願寺に伝えられたのであるが、
文言が『仏説阿弥陀経』に説かれる六方諸仏の名号に替えられている。
また、安政本『聲明集』には「懺法中」と記されたものと2曲が掲載されている。
こちらは阿弥陀仏の師仏・世自在王仏と阿弥陀仏、そして観音・勢至の眷属の名号となっている。
両曲とも旋律は全く同じき切音の博士が付けられている。

「十方念仏」そのものは昭和8年の法式改正で停廃されたものの、
この旋律の音曲は現在も引き継がれている。
所謂「四句念仏」と呼ばれる音曲がそれで、博士に大同小異はあるものの、
漢音と呉音の両様で唱えられている。

知影はこれらの草稿と思しき写本も宝泉院で実見しているようだが、
奥書などがなかったのであろう、誰が草したのかは解らないという。
恐らくは珍雄、嶺雄、韶雄の誰かがしたためたものなのだろうか……。


蛇足ではあるが、しばしば魚山の法要に出仕させて頂くと、
この「十方念仏」を唱えることがある。
そんな時にふと思うことであるが、「南無妙法蓮華経」という文言をして、
法華宗を開かれた日蓮上人は、恐らくはこの「十方念仏」の文言を取り出して、
世に布教されたのではなかろうか……と、そんな風に想像をたくましくする浄土門の私である。
以て、「南無阿弥陀仏」という文言もまた、
「八句念仏」や『例時作法』の「甲念仏」に音曲として存在するからである。







【4】
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【5】
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【6】
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【4・5】
安政本『聲明集』所収の「十方念仏」。
右側のページに見えるのは、「弥陀合殺」である。
【6】
同、「十方念仏・懺法中」。
どちらも博士や構成に相違はないが、尊名に相違が見られる。
こちらは世自在王仏と阿弥陀仏、そして眷属の2菩薩の名号で構成される。

































■知影著『魚山余響』を読む。
■知影著『魚山余響』を読む。-2-
■知影著『魚山余響』を読む。-3-
■知影著『魚山余響』を読む。-4-
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■知影著『魚山余響』を読む。-9-
■知影著『魚山余響』を読む。-10-
■知影著『魚山余響』を読む。-11-(第一条)
■知影著『魚山余響』を読む。-12-
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■知影著『魚山余響』を読む。-38-

「千本釈迦念仏」。

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  千本の釈迦念仏は、文永の比(ころ)、如輪上人、これを始められけり。


………とは、吉田兼好の『徒然草』第228段である。

如輪上人とは、千本釈迦堂大報恩寺第2世である。
法然の弟子・長西に師事した、浄土門を修めた僧侶でもある。

彼岸中日の翌日、千本釈迦堂へ「釈迦念仏」を聴聞すべく参詣した。
具さには、『釈迦念仏遺教経会』という。
中心となるのは、『仏垂般涅槃略説教誡経』を読むものである。
本来は2月の涅槃会前日に、『仏遺教経』を読誦する習わしがあったようである。
この経典は、鳩摩羅什(←クリック)が漢訳したもので、
馬鳴菩薩が著した『仏所行讃』「大般涅槃品」に近似する内容である。

法要に先立ち、簡単な解説があったが、
大原流(魚山聲明のこと)による釈迦念仏との言及があるも、
現在ここで行われている音曲は、全く大原流のものではない。

千本釈迦堂は元々天台宗の寺として発足しているので、
「釈迦念仏」が創始された頃は、魚山聲明の音曲であったのだろう。
近世以降、この寺は新義真言宗智山派に与するようになり、智積院の能化が隠居する寺となっている。
従って「釈迦念仏」も、真言宗・智山流聲明の音曲へと変化しているのはいうまでもない。

法要は『仏遺教経』の訓読に初重・二重・三重の旋律が付き、講式のような感じだった。
そして経段が終わると、「南無釈迦牟尼仏」に真言聲明の旋律を付けて唱えられた。

本願寺の古い記録に見える「千本流」聲明とは、既に廃絶した真言系聲明の古流をいうが、
千本釈迦堂に伝承されたものとは考えにくい。
恐らくは、この地域に古くから所在した、上品蓮台寺などの真言宗寺院に伝えられた聲明だと考えられる。

もっとも蓮如の門弟であった江州堅田本福寺・第6世明誓は、
『本福寺跡書』に以下のように記録している。
 

  大谷殿様御つとめは、北野の釈迦念仏をかたどりたまふとかや


「大谷殿様」とは山科以前の、知恩院に隣接して所在した大谷本願寺のことである。
言わずもがなこの時代の本願寺は、青蓮院末妙香院の下寺で、天台宗であった。
あるいは、蓮如の第10男・実悟が著した『山科御坊事并其時代事』には、


  一、和讃を念仏にくはへ申事の次第は口伝あり、
    九重にこれをさたむと也、当時ハ、やうやう品は三重ハかりにて候、
    口伝等次第、心得られ度事にて候、


とある。
ここにある「九重」とは真言系聲明における、初重・二重・三重と順に音階が高くなるも、
四重で初重の高さに戻り、五重・六重と同じ高さを繰り返すことをいう。
これは真言系聲明に見える特徴で、本願寺の聲明が真言系聲明の影響を受けている傍証であるという。
確かに、現在も東本願寺に存在する唱法の「舌々(ぜぜ)」や「中拍子」といった用語も、
真言系聲明に起源があるようにも考えられるのは確かである。

こうした記述を手がかりに、音楽学者である岩田宗一氏はその著書『声明の研究』の中で、
千本釈迦堂に見られる「釈迦念仏」に本願寺聲明の源流を見出そうとされている。
しかし蓮如あるいはその先代・存如の時代に千本釈迦堂で行われていた聲明は、
明らかに天台系の聲明であると考えられるのである。
「釈迦念仏」もまた、天台系の聲明ではなかったか。
法要に先立つ解説で、敢えて「大原流」と言及する所以であろう。

ただ、千本釈迦堂そのものの伝承として、
『徒然草』にもあるようにこの寺で「釈迦念仏」が行われていたのは疑うべくもない。
『本福寺跡書』に見える「北野の釈迦念仏」という記述も、
千本釈迦堂のそれを自然に想起させるものがある。
従ってその聲明もまた、「千本流」であると考えられる。
しかしながら「北野の釈迦念仏」が、千本釈迦堂で行われていたものと即断し難い経緯を、
千本釈迦堂自体がたどっているのである。
果たして同じく千本に所在する、上古から真言宗に属していたであろう、
上品蓮台寺あるいは千本焔魔堂・引接寺などでも、
「釈迦念仏」が行われていたかどうか調べてみる必要がある。
また『本福寺跡書』にいう、「北野」と「千本」との詳細な位置関係も気になるところではある。
私はむしろ「千本流」聲明は、そうした寺で勤められていた聲明ではないかと考えている。

ところで「釈迦念仏」を想起させる音曲として、魚山聲明には「釈迦合殺」がある。
即ち、『涅槃講式』中にある音曲である。
この『涅槃講式』は、明恵が編んだ『四座講式』中ある同名の講式とは別のもので、
式文は源信・恵心僧都が著したものとの伝承があるが定かではない。

「合殺(かっさつ)」とはその意味に諸説あるも、
サンスクリット語の数詞《6》を「殺」と漢訳し、概ね「6を合する」という意味合いの文言である。
現今の西本願寺で俗称される「十一句念仏」がそれのことであるが、
これは「弥陀合殺」の切音(きりごえ)譜である。
11句ある仏尊の名号を唱える音曲であるが、6句目に至って1句目の旋律に戻るのでこの名がある。
「合殺」と念仏の大きな違いは、句頭に「南無」の2字を付けないことである。
この「釈迦合殺」に「釈迦念仏」を重ねて考えたりするのであるが、
千本釈迦堂で聴いた音曲は「南無釈迦牟尼仏」という釈尊の名号を繰り返すもので、
「合殺」ではなく明らかに「念仏」なのだった。







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そんなことを考えつつ、智積院から出仕した若い僧侶たちが唱える「釈迦念仏」に聞き入った。
真言宗の聲明を聞いていて連想するのは、やはり東本願寺の聲明である。
ユリの旋律が、とても似通っているからである。
しかし現今に唱えられる東本願寺の聲明も、江戸時代に大きな改革を被った音曲である。
ただ、その旋律の一々は、西本願寺の改譜前の「正信偈・和讃」と通底するので、
本願寺古来の唱法を残しているのは想像に難くない。

ここしばらく、花冷えとばかり雨が続いていた。
そんな中で、本堂前の垂れ桜が早くも花を咲かせていて、とても美しかった………。






























■写真■

【上】
本堂前の「おかめ桜」も彼岸中日を待たずに開花していた。
【中】
本堂外陣に掛けられた江戸時代の作と伝える『仏涅槃図』。
唯一、《猫》が描かれていないのがこの涅槃図の特徴らしい……。
【下】
法要の様子。

以上、京都市上京区の千本釈迦堂にて、2018年3月22日撮影。

枳殻邸の春。

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昨日、父親が東本願寺の枳殻邸へ行きたいと言うので付き合った。

枳殻邸とは、正しくは渉成園と称する東本願寺の別邸である。
徳川家光が寄進し、石川丈山の作庭なのだという。
かつては鴨川に接する広さだったというが、現在も広大な庭園である。

枳殻邸の持仏堂である園林堂と、その正門たる傍花閣の周辺は、
4月を待たずして桜が満開となっていた。
例年よりも一週間以上早い開花にしてそれも満開というのは、
何やらほんの少し、得をしたような気持ちにさせてくれるものである……。







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父親も私も、祖母の実家が経営する幼稚園を卒園している。
曾祖父(父方祖母の父)が創立した、京都市内でも最古の幼稚園である。
生前に母親が言っていたが、母方の曾祖母も創立当初にここを卒園しているという。

枳殻邸の北側に隣接して、祖母が生まれ育った寺がある。
夏の《お泊まり保育》の時、昼間は枳殻邸の広大な庭園で遊び、夜は祖母の寺に寝泊まりした。
父親も同じ体験をしているようで、父親も私もここで走り回ったりして遊んだ記憶がある。

もっとも今も昨日のことのようによく覚えていることだが、
年少組の時だったか、日が暮れると私はホームシックになり、
家に帰りたいと泣きじゃくって先生を困らせた。
すると多分、親の許へ連絡が行ったのであろう、暫くすると両親が私を迎えに来てくれたのだった。
まあ、歳を重ねるとそれも治まり、年長になる頃はその寺で朝を迎えることができた。

あの頃は東本願寺も、末寺が経営する幼稚園に別邸を開放してくれていたのだろう。

考えてみれば、親子で全く同じ経験を記憶しているというのも、
ある意味において浅からざる縁を想うのである。








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■写真■
以上、京都市下京区正面通間之町東の東本願寺・渉成園にて、2018年3月26日撮影。

桜咲く頃、南滋賀駅にて。

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母親の誕生日である。
生きておれば、今日で79歳たらん。
間もなく三回忌を迎える。
2年という歳月が、あっという間に流れた。

何やらここ数年、毎年春になると京阪石坂線・南滋賀駅での写真をアップしている。
この駅には、見事な桜の老木が生えている。
つい、満開の桜と電車を並べて撮りたくなるだけのことである……。

過日のダイヤ改正を機に、旧「浜大津」「別所」「皇子山」「坂本」の各駅名が、
それぞれ「びわ湖浜大津」「大津市役所前」「京阪大津京」「坂本比叡山口」と改称された。
観光客誘致の対策と、JRとのアクセスを意識してのことなのだろう。

しかしダイヤ改正は、特に京津線の利便性を更に悪化させたような気がする。
毎時20分間隔に本数が減らされ、京都市内から浜大津への終電が非常に早くなった。
つくづく、路面電車だった時代の京津線の方が、最も合理的で便利だったと痛感する。

ところで今年はいつもよりずっと早く、南滋賀駅の桜が満開になった。
やはり桜を眺めていると、ざざまな記憶が去来する。
生前の母親は、桜の花が大好きだった。
南滋賀駅に1本だけ残る桜の老木は、幹が割れていていささか痛々しい姿である。
そんな老木ではあるが、春のこのひとときだけは本当に美しく花を咲かせる。


ふと、西本願寺第21世・大谷光尊(←クリック)の娘、九條武子が詠んだ歌を思い出す。


  見ずや君
  明日は散りなむ花だにも
  ちからのかぎりひとときを咲く
  

大谷家から九條家へ嫁いだ彼女は、43歳の若さで亡くなっている。
九條武子は、当代随一の美女でもあった。
一瞬にして散ってしまう、桜を思わせる人生だ。


そういえば母親も、春になると南滋賀駅の老木が付ける満開の花がとても綺麗だと言っていた。
母親はしばしば京都へ行くのに、この駅から電車に乗ったものである。
浜大津で京津線に乗り換えて河原町界隈へ出掛けていたが、私もよくそれに付き合うことがあった。

電車は桜を気にとめることもなく、その傍らに停まってはまた走り去って行く。
今や石坂線電車だけとなった伝統の京阪カラーも、間もなく見納めとなる。
































■写真■
南滋賀駅に停車中の、石山寺行き普通電車。
大津市南志賀の京阪電鉄石坂線・南滋賀駅にて、2018年3月30日撮影。

空の名残…

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なにがしとかやいひし世捨人の、
「この世のほだし もたらぬ身に、たゞ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、
まことにさも覚えぬべけれ。



















これは吉田兼好に成る、『徒然草』第20段の全文である。

「ある世捨て人が、この世では何も束縛されるものを持たない身の上とはなったが、
《ただ過ぎ去ろうとする時の流れだけが惜しく思える…》と言っていたが、本当にその通りだと思う」
といった意味である。

ここにある「空の名残」とは古来からの慣用句で、
過ぎ去ろうとする時間の余韻を意味するのだという。
なんとも快い、響きの良い言葉ではなかろうか……。

私も深く頷かずにはおれない。
我が人生は、想像していた以上に波乱に富んでいたと思う。
身から出た錆と言ってしまえばそれまでのことではあるが、
「世捨人」という境地は、若い頃からの理想でもあった。
しかし、過ぎ去った時間を惜しむらく思うことばかりは捨てられない。
これもまた、人生なのだろう。

今年の桜はとても早く咲き出した。
私は桜の花を眺めるのが大好きである。
大好きな思いとは裏腹に、桜の花は私を切なき「空の名残」へといざなう……。































これも、ずっと自身に言ってきた言葉。































■写真■
京都市左京区下鴨の賀茂川にて、2018年3月29日撮影。

知影著『魚山余響』を読む。 -40-

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文化元年刊・3冊本『聲明集』ないし、
安政4年刊・4冊本『聲明品』から書写された聲明帳にみえる「仏徳頌」。

「仏徳頌」は、真宗興正派では現在も依用されている。
1行目1字目の「如」は、現行『真宗興正派 常用聲明集』では、
《ソリ・ユリ二》となっている。

  一、善導画讃は台家の画讃によれり 
    何人の墨譜をつけられたるやしりがたし
    専修寺所蔵の本の奥書に云
    
    右善導画讃以吾山之古本対校相違稍々多
    今旦依六条寺内用来本点之一二私加潤色后賢宜訂正焉
    宝暦六年両子六月十日



  一、仏徳頌は画讃によれり
    何人の墨譜なることをしらず
    善導画讃四五十年ばかり前までは依用したまふとなり
    仏徳頌の墨譜なりてより画讃をやめたまふときゝつたへたり






                          光隆寺知影『魚山余響』



魚山聲明には、「画讃」と呼ばれる音曲が存在する。
この音曲は『御影供(みえく)』と称する、祖師の御影に讃嘆供養する作法中にあり、
即ち、祖師の肖像画にしたためられた讃に聲明譜を付けたものである。
「天台大師御影供」「伝教大師御影供」「慈覚大師御影供」「慈恵大師御影供」などが知られる。

西本願寺にも宗祖親鸞の御影(こちらは“ごえい”と読む)への作法として、
『大師影供作法』(←クリック)がある。
この作法中には園部覚秀阿闍梨による、
魚山聲明の「授地偈」の譜を付けられた「画讃」が編まれている。

さて、知影以前のことであろうか、
西本願寺には「善導画讃」と称する音曲があったようだ。
七高僧第五祖・善導大師の「画讃」であるが、その文言の出拠などは解らない。
浄土宗などで唱えられていたものが、西本願寺にも伝えられたのであろうか。

知影は同じき御堂衆の専修寺で、これを見ているようだ。
天台宗で用いられる「画讃」の譜を転用したもののようであるが、
どの聲明家が作譜したのか不明であるという。

奥書によれば、古写本と対校するも相違点がやや多く、
いくつかの六条寺内にあるいくつかの写本を参考に加筆訂正を加えた旨が読み取れる。
御堂衆の寺院には、いくつかの「善導画讃」の写本が存在していたのであろう。
奥書が記されたのは宝暦6(1757)年のことであり、
知影の時代からおおよそ半世紀前のことである。

そして、いつの頃からか「善導画讃」が唱えられなくなり、
それに替わって「仏徳頌」が唱えられるようになったという。
「仏徳頌」もまた魚山聲明の「画讃」の譜を転用したものであるが、
知影はこれも誰の作譜によるか分からないという。

「仏徳頌」は、『大宝積経』「無量寿如来会」の文言に「画讃」の譜を付けたとされる。
この文言は後、昭和9年の法式改正によって『修正会作法』の「頌讃」に転用されている。

「仏徳頌」は、安政4年刊・4冊本『聲明品』に収録されている。
確かに『慈覚大師御影供』中の「天台慈覚大師徳行讃」即ち「画讃」の譜面にそっくりである。
七言の讃なので、さのまま転用することが可能な音曲ではあるが、
大同小異というべきか、魚山聲明「画讃」にある譜面をそのまま法則的に転用はされていない。
どちらかといえば、それをベースに新たに編曲している感がある。
恐らくは知影は、そのことが気になっていたのではなかろうか。

ところで「仏徳頌」は、隣山興正寺では現在も盛んに依用されているようだ。
平成13年に刊行された、『真宗興正派 常用聲明集』にも収録されている。
これによれば「仏徳頌」の原曲は、「慈覚慈恵徳行讃」と銘記されてあった。

ただ、現行の『天台四大師御影供』中「慈覚大師御影供」などを見ると、
魚山御蔵版の古刊本とは異なるところが見られる。
特に「慈覚大師御影供」は、中山玄雄阿闍梨の書写によるものである。
古刊本では「画讃」急曲部分に見える徴音の博士は《ユリ》であるが、
『四大師御影供』では《スク》になっている。
奥書の写しから推測するに、恐らくは両様あったのであろうか。

「善導画讃」に取って代わられたのが「仏徳頌」という、知影の記述は興味深い。
この当時、ほんの半世紀そこそこで衰退した音曲が西本願寺に存在したというのは、
近現代における西本願寺の法要儀式に関する体質のルーツを見るようだ。
東本願寺とは、まことに対照的であるといわねばなるまい……。












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文久2(1862)年の奥書がある刊本『慈覚大師御影供』にある、「慈覚大師徳行讃(画讃)」。







余談ではあるが、私が学ばせて頂いている西六条魚山会の師僧が、
「正信念仏偈」に「慈覚大師徳行讃」の譜を付けられた。
それを部分的にではあるが公開の場で唱えたことがあった。

西本願寺で依用される現行の「正信偈」は、
『極楽荘厳讃』の譜を転用した真譜・行譜、古来からの唱法をベースとする草譜、
魚山の切音譜を付けたもの、葬儀で用いる旧舌々譜がある。
これら耳に聞き慣れた譜面とは異なる「慈覚大師徳行讃」の音曲に乗せてみると、
まことに妙音聲の「正信偈」となったのである。
宗祖親鸞が編んだ偈頌(げじゅ)が、
如何に聲明譜と絶妙に符合するかが証明される瞬間でもあったのである……。

























■知影著『魚山余響』を読む。
■知影著『魚山余響』を読む。-2-
■知影著『魚山余響』を読む。-3-
■知影著『魚山余響』を読む。-4-
■知影著『魚山余響』を読む。-5-
■知影著『魚山余響』を読む。-6-
■知影著『魚山余響』を読む。-7-
■知影著『魚山余響』を読む。-8-
■知影著『魚山余響』を読む。-9-
■知影著『魚山余響』を読む。-10-
■知影著『魚山余響』を読む。-11-(第一条)
■知影著『魚山余響』を読む。-12-
■知影著『魚山余響』を読む。-13-
■知影著『魚山余響』を読む。-14-
■知影著『魚山余響』を読む。-15-
■知影著『魚山余響』を読む。-16-
■知影著『魚山余響』を読む。-17-
■知影著『魚山余響』を読む。-18-
■知影著『魚山余響』を読む。-19-
■知影著『魚山余響』を読む。-20-
■知影著『魚山余響』を読む。-21-
■知影著『魚山余響』を読む。-22-
■知影著『魚山余響』を読む。-23-
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■知影著『魚山余響』を読む。-30-
■知影著『魚山余響』を読む。-31-
■知影著『魚山余響』を読む。-32-
■知影著『魚山余響』を読む。-33-
■知影著『魚山余響』を読む。-34-
■知影著『魚山余響』を読む。-35-
■知影著『魚山余響』を読む。-36-
■知影著『魚山余響』を読む。-37-
■知影著『魚山余響』を読む。-38-
■知影著『魚山余響』を読む。-39-

山科毘沙門堂の桜。

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山科の北端に所在するのが、毘沙門堂門跡である。
つぶさには護法山出雲寺といい、天台五箇室門跡の1つである。

小学生の頃、琵琶湖疏水(←クリック)からこの辺りにかけては楽しい遊び場だった。
毘沙門堂の境内や裏山を駆けめぐった日々が、懐かしく思い出される。
春の桜の美しさは昔日のままだが、それにしても随分と観光客が増えた。

午後2時を過ぎる頃に訪れると、
本堂内陣左側の不動明王の尊前で、護摩供がひっそりと勤められていた。
とかく我が浄土真宗は、「祈り」という言葉を忌み嫌う傾向がある。
しかし「祈り」とは、宗教の最もプリミティブな行為を表す言葉である。
浄土真宗の聖教にも、「祈り」という言葉は出てくるのだが………。
炎の前で修法する僧侶の背中を眺めていたら、ふと、そんなことが脳裏をよぎった。

ところで毘沙門堂の本尊毘沙門天は伝教大師の御自作と伝えられる、
身の丈2寸ほどの小像で、像容としては大変珍しい座像なのだそうだ。
由緒によれば、比叡山根本中堂の本尊である薬師仏を彫った時の木片から刻んだものという。
そして開帳は、333年に1度しかされないという。
奇しくも平成10(1998)年が、その回り年だったらしい。
尊容を拝するチャンスを、永遠に逸してしまった。
幼い頃から慣れ親しんでいただけに、つくづく残念である。

そんな思いを寄せつつ、昔日とは変わらぬ本堂にたたずむ。
しばし尊前にぬかずけば、小学生時代にここで遊んだ頃の自身に戻った、
タイムスリップしたような感覚にひたることができた……。







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■写真■
京都市山科区安朱の毘沙門堂門跡にて、2018年4月2日撮影。

知影著『魚山余響』を読む。 -41-

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  一、弥陀懺法は四明遵式の撰といひつたへたり
    墨譜は何人の作なるや古代の製と見へたり 
    全早懺法の体にならへり 殊勝なるものなり
    吾山内にて五十年ばかり前まで例年十一月二十一日逮夜に依用したまふよし
    近年はこれをやめられ十二光礼を依用したまふ
    去年文化八年辛未四月
    前住信入院殿十三回忌御法会第七逮夜に弥陀懺法を依用したまふ
    奉請段などはのぞきて唱ふ
    尤の御事なり





                          光隆寺知影『魚山余響』



『魚山余響』には、たびたび『阿弥陀懺法』に関する記述が見られる。
ことにこの法儀中にもある『観無量寿経』「光明摂取章(真身観)」は、
知観僧正の作譜であることも述べている。
安政本『聲明品』には、「光明摂取章」と題する音曲が掲載されている。
これこそが恐らくは、知観僧正が付けた博士によるものと考えられる。
これは『聲明懺法(法華懺法)』(←クリック)律様の経段に付けられた博士を転用している。

『阿弥陀懺法』は、「四明遵式」が撰述したものと知影は記している。
四明とは、中国宋代における天台宗の学派を意味する。
分けてみれば義通(927―988)門下の四明尊者知礼(960―1028)と、
同門である慈雲尊者遵式(964-1032)のことであるが、知礼の学派を特に「四明天台」と称した。

余談ではあるが、宋の太祖建隆元(960)年、
呉越王・銭弘俶が義寂(義通の師匠、919―987)の奨めで日本に使者を遣わして、日本天台宗の佚書を求めた。
これは会昌の廃仏(845)などのため、典籍が散逸したからという。
義寂は日本の他、高麗へも派遣して収集に努めた。
日本からは源信和尚が著したばかりの『往生要集』などが送られ、
比叡山と宋の四明学派が往き来をしている。

また、日本天台宗から寂昭は、源信和尚の『天台宗疑問二十七条』を携えて入宋し、
知礼がこの疑問に回答している。
あるいは寂昭がもたらした『南嶽禅師止観』や『方等三昧行法』に、
遵式が序文をしたためたりしているという。
遵式は日本に伝来している天台宗関連の典籍に対して、
非常に関心を寄せていたといわれている。

遵式は浄土教にも精通し、ことに懺悔法などの行儀に通じていた。
そして遵式には多くの著作があり、
『請観音伏毒害三昧儀』『往生浄土懺願儀』は日本でも広く流布したそうだ。
『阿弥陀懺法』は、『往生浄土懺願儀』に依拠した法儀であるという。

さて、西本願寺に伝承されていた『阿弥陀懺法』は、
「早懺法」即ち切音(きりごえ)の音曲に倣って作譜されていて、
知影はいにしえに作られたもので非常に素晴らしい音曲であると絶賛している。
そして知影の時代から半世紀ほど前までは、
御正忌報恩講の初逮夜法要で唱えられていたのだという。
しかしいつの頃からか『阿弥陀懺法』に替わって、『十二光礼』が用いられるようになっていた。

そして文化8(1812)年4月に勤められた、
西本願寺第18世・信入院文如(1744-1799)の十三回忌法要の第七逮夜法要において、
『阿弥陀懺法』が用いられた。
この時に用いられた『阿弥陀懺法』では、「奉請段」などいくつかの章を略して勤められたようだ。

ところで『阿弥陀懺法』とはその名が示す通り、
阿弥陀仏を本尊として十方諸仏諸菩薩を敬礼しつつ懺悔滅罪を行う法儀である。
《滅罪》という発想は浄土真宗の教義からすれば外れているようにも思われるが、
西本願寺では法要儀式の上では矛盾なく行われていた訳である。

おおよその次第は、以下の如くである。


  三宝礼
  供養文
  奉請段
  敬礼段
  五悔(懺悔・勧請・随喜・回向・発願)
  十方念仏
  経段(『観無量寿経』真身観)
  四句念仏
  後唄
  三礼
  如来偈


次第は『聲明懺法』にほぼ準ずるものである。
そして『聲明懺法』同様、呂と律の2様が存在する。

以前、『魚山余響』第14条のところで記した、
『西方懺法』(曼殊院蔵・室町時代末期書写)は、
宗祖親鸞の師匠である慈円僧正が日吉社で勤めているなど種々の記録がある。
『西方懺法』はそれに先行する『西方懺悔法』(青蓮院蔵・平安時代書写)に倣い、
これに『往生礼讃』などから引用して構成されている。
『西方懺悔法』は慈覚大師円仁の作と伝えられ、鎌倉以降衰退したとされる。

『西方懺悔法』並びに『西方懺法』と非常に似ているのが『阿弥陀懺法』なのであるが、
『阿弥陀懺法』は宋・遵式の撰述とするならば、一連の『西方懺悔法』の懺法類は、
むしろ『阿弥陀懺法』の方が古い成立とも考えられる。
これがいつ頃日本にもたらされ、『西方懺法』ともどもどのように依用されて、
魚山の所蔵されるかに至ったことなど、全く空白といわねばなるまい。







【2】
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【3】
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【4】
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【1】
明治11年刊・園部覚秀編『阿弥陀懺法』呂様「三宝礼」。右側は「瓔珞伽陀」の後半部分。
【2】
同「奉請段」冒頭部分。右側は「供養文」。
【3】
同「経段」。『観無量寿経』「光明摂取章(真身観)」。
【4】
安政本『聲明品』に収録される「光明摂取章」。
こちらに付された博士は、律様のものである。
経題の部分が、『阿弥陀懺法』律様と異なっている。







西本願寺では知影以降、『阿弥陀懺法』は特に幕末明治期には盛んに用いられたことが分かる。
果たして西本願寺において『阿弥陀懺法』は、著しい変遷を遂げた。
安政本『聲明品』には《懺法中》と注記された「十方念仏」並びに、
『観経』「光明摂取章」が収録されている。
いずれも、『阿弥陀懺法』という法儀から抄出と見てよかろう。

明治初期には魚山法師・園部覚秀阿闍梨の編纂によって、
『阿弥陀懺法』呂・律・切音(早懺法)の3種が永田調兵衛から発刊されている。
ここに見える律様の経段と、安政本『聲明品』中の「光明摂取章」とでは、
経題の部分のみの博士が異なっている。
安政本『聲明品』収録のものを知観僧正と考えるならば、
園部覚秀阿闍梨は編纂に際して博士を書き換えたと考えられる。
あるいは魚山に伝えられた、古くからの博士に戻したのであろうか。
というのも、『聲明懺法』の経段(『法華経』「安楽行品」)に付けられた博士と同一だからである。

その後、『龍谷梵唄集』収録に際して、『阿弥陀懺法』も「三経作法」の1つとして収録される。
即ち、『無量寿経作法』『阿弥陀懺法』『例時作法』(以上、全て切音)である。
ここに至って『阿弥陀懺法』は、「奉請段」が省略され、
「五悔」は旧来のものから『往生礼讃』の文言に入れ換えられているのである。

更に昭和9年の法式改正において、『阿弥陀懺法』は『観無量寿経作法』と改められ、
往古以来のその姿を消してしまうのである。
しかしこの法式改正以降も、
地方の寺院では昭和40年代初頭まで『阿弥陀懺法』は依用されたようだ。

ちなみに天台真盛宗では、現在も切音の『阿弥陀懺法』が依用されている。
内容は幕末明治初期に西本願寺で用いられていたもの同一である。







【5】
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【6】
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【5】
明治43年刊・澤圓諦編『龍谷梵唄集』中、『阿弥陀懺法』。
【6】
安政本『聲明品』に収録される「十二光礼」。

































■知影著『魚山余響』を読む。
■知影著『魚山余響』を読む。-2-
■知影著『魚山余響』を読む。-3-
■知影著『魚山余響』を読む。-4-
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■知影著『魚山余響』を読む。-6-
■知影著『魚山余響』を読む。-7-
■知影著『魚山余響』を読む。-8-
■知影著『魚山余響』を読む。-9-
■知影著『魚山余響』を読む。-10-
■知影著『魚山余響』を読む。-11-(第一条)
■知影著『魚山余響』を読む。-12-
■知影著『魚山余響』を読む。-13-
■知影著『魚山余響』を読む。-14-(阿弥陀懺法について)
■知影著『魚山余響』を読む。-15-
■知影著『魚山余響』を読む。-16-
■知影著『魚山余響』を読む。-17-
■知影著『魚山余響』を読む。-18-
■知影著『魚山余響』を読む。-19-
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■知影著『魚山余響』を読む。-22-
■知影著『魚山余響』を読む。-23-
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■知影著『魚山余響』を読む。-39-
■知影著『魚山余響』を読む。-40-

知影著『魚山余響』を読む。 -42-

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  一、弥陀懺法に法華懺法の墨譜をつけたる本西光寺にあり
    これかの寺の先住賢従の作なるべし
    余賢従に聲明をならふときこの本あることしらず
    このごろかの庫中にあるを見る
    往年知観僧正真身観の墨譜をくだされたるときも
    この本あることをしらず
    今これを観僧正の作にくらぶるに経題の墨譜などはいづれ是非しがたし
    各ふかく意を用るのところあり此事余別論あり
    この弥陀懺法今一往校正を加て本山にも依用したまふやうにありたきことなり
    賢従没後こゝに二十五年を経たり
    賢従在世のころは吾山内に六冊の名をもきかず
    法華懺法の墨譜など見聞したる人なし
    吾山内に魚山流義の中絶せるころなり
    故に賢従の聲明に精(くは)しきことをも賞する人なし余此が為に惜む
    今賢住あらば此等の作は已に本山の依用となるべし

   




                          光隆寺知影『魚山余響』



知影は27歳で魚山へ参内する以前は、西光寺賢従(←クリック)に聲明の手ほどきを受けていた。
賢従もまた、魚山で聲明を修めた西本願寺の御堂衆である。

賢従の自坊である西光寺には彼自身が作成したという、
『法華懺法』の博士を付けた『阿弥陀懺法』が秘蔵されていた。
しかし知影は、その存在を全く知らなかったそうだ。

かつて、知観僧正が博士を付けた『観無量寿経』「真身観」を貰い受けた時も、
賢従の作成した『阿弥陀懺法』に気付くことはなかった。
知影は知観僧正のものと賢従によるものと見比べた時、
賢住がしたためた経題部分に若干の問題点を感じたようだ。
校正を加えたならば、本山でも依用できるものと記している。

賢従が亡くなってから四半世紀が経過した知影当時、
西本願寺内では最早、魚山聲明を集成した『六巻帖』の存在すら知らない者ばかりだった。
ましてや、聲明本としての『法華懺法』など見た者もいなかった。

若き日に師事した知影の師匠である賢従が、
聲明に通じた達者だったことを称讃する者も見当たらなかった。
そのことはまさに、西本願寺で魚山聲明が断絶していることにも等しいと知影は嘆く。
もし賢従が存命ならば、ここに発見した『阿弥陀懺法』が本山で用いられた筈だと、
知影は信じて疑わなかった。

思えば現今における西本願寺の聲明もまた、魚山聲明から遠いものとなっている。
魚山と没交渉であればあるほど、至極当然のことである。
それは言わずもがな知影の嘆きに等しく、知影が生きていた時代ですらそうであった。

昭和8年の法式改正は西本願寺聲明の在り方を、
より教義に合致させねばならないという力が大きく働いたといえる。
そのことに関しては一概に是非を断ずることはできないが、
前項でも書いたように『阿弥陀懺法』の変遷は、まさに教義との合致への動きの変遷ともいえる。
こと昭和の法式改正後の聲明は全て「浄土三部経」と、
七高僧および宗祖撰述にかかる聖教ないしそれに準ずる文言のみとなった。
『仏母孔雀明王経』の文言である『供養段』という音曲を残した、隣山興正寺とは対照的である。

そんな西本願寺はいよいよ聲明の世界から脱皮して、
当世流行りの音楽法要へとシフトしつつあるやにも見える。
そのような動きの中で往古の聲明やその源流は、
旧時代の産物として忘却の彼方へと追いやられるのだろうか。
しかし往古の聲明がどのようなものであったか知ることは、必要であると信じて止まない。
私はその必要性に駆られて『魚山余響』を読むのであり、聲明の師匠の許へ足繁く参内するのみ……。







【2】
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【3】
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【1】
『聲明懺法』律様。
「三宝礼」。右側のページは「総礼伽陀」の後半部分。
【2】
「供養文」。
【3】
「敬礼段」。

































■知影著『魚山余響』を読む。
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■知影著『魚山余響』を読む。-4-
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知影著『魚山余響』を読む。 -43-

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  一、嘆仏文願生偈略譜 信慧院殿の御作と申つたへたり
    二偈ともに重誓偈の躰なり

    
   




                          光隆寺知影『魚山余響』



信慧院とは、西本願寺第17世・法如(1707-1789)のことである。
西本願寺における法如の治世は、
長年の念願であった本山阿弥陀堂が再建されるなど、大事業が推進された時代だった。

さらに本願寺歴代の遠忌法要が勤められたりして、それが以後の先例となっている。
それまでは宗祖親鸞の遠忌のみであり、歴代は三十三回忌以後は勤められなかったようだ。
しかるに第8世・蓮如の二百五十回遠忌をはじめ、第3世・覚如の四百回遠忌、
九條兼実五百五十回遠忌、聖徳太子千百五十回遠忌などが勤められている。
阿弥陀堂が再建成った翌年の宝暦11(1761)年には、
宗祖親鸞の五百回大遠忌法要が十昼夜にわたって勤められた。

あるいは聖教などの出版事業も大いに展開された。
慶証寺玄智による『大谷本願寺通記』15巻、
『真宗法要』67巻などが阿弥陀堂落慶記念として刊行されている。
これら出版事業において特筆すべきは、宝暦6(1756)年に『真宗聲明品』が発刊されたことである。
宗門における、公式な聲明本のこれが最初である。

また、『真宗聲明品』に引き続いて玄智は『聲明品彙』を発刊し、
それらが後の文化元(1804)年に発刊された3冊本『聲明品』となったと考えられる。
即ち、『聲明品 前集』1巻、『聲明後集 聲明品彙』乾・坤2巻である。
これら聲明本の特徴は、博士が印刻されていないことである。
行間が空けられていて、所持した者が指南を受けてから入記するようになっている。
加えて「正信偈和讃」もまた法如晩年に至って、
『三帖和讃』に博士を付けたものが御蔵版として初めて発刊されている。

法如の時代に至って、西本願寺の法式は改革が行われている。
本山阿弥陀堂での晨朝勤行が、
百済読「阿弥陀経・舌々」を「讃仏偈」に改められて今日に至っている。
音曲においても「四智讃」「仏讃」「法讃」などは《聖道家の聲明》であるとして、
現在まで伝えられている「諸智讃」 「五眼讃」
現在は廃絶した「仏吼讃」「勧帰讃」などとして文言が浄土真宗所依の聖教のものに改められた。
しかしながら、「四智讃」「仏讃」「法讃」は3冊本の『聲明品 前集』には掲載されているので、
安政本『聲明集』が発刊されるまでは残存していて用いられていたと考えられる。

ところで法如は第14世・寂如の如く、聲明にも造詣が深い法主だった。
法如の時代には、引き続き魚山から珍雄門下の嶺雄・韶雄が聲明の指南に訪れている。
そんな中で「嘆仏文」「願生偈 略譜」は、法如自身が作譜したのだった。

「嘆仏文」は、『浄土五会念仏略法事儀讃』中にある偈文である。
『浄土五会念仏略法事儀讃』即ち『五会念仏作法』は、
『如法念仏』などともに古くから行われていた法儀である。
興正寺に江戸時代に書写された聲明本が伝えられている。
これは明らかに西本願寺で明治以降に流布した『五会念仏作法』とは異なり、
書写年代からして西本願寺のそれよりも古儀を示している。
この『五会念仏作法』には、「嘆仏文」がない。

明治に至って『龍谷唄策』に一連の作法として『五会念仏作法』が掲載されるが、
これは園部覚秀阿闍梨による編曲である。
興正寺伝来の『五会念仏作法』の譜面とは全く異なり、「極楽荘厳讃」だけが踏襲されている。
そして「嘆仏文」も「嘆仏讃」と改称して、
「極楽荘厳讃」の譜を転用して新たに挿入されたのである。
『龍谷唄策』中の「五会念仏作法」に関しては、
魚山の天納伝中師がその著『天台声明 -天納伝中著作集-』において、
覚秀阿闍梨の編曲であろうと結論付けられている。
私もその学説に賛同している。
その説を補強するのが、興正寺伝来の『五会念仏作法』だからである。
ちなみに安政本『聲明集』にも『五会念仏作法』の音曲が掲載されていて、
いずれも興正寺伝来の写本と同じ博士が付けられている。

翻って「願生偈」本譜は、魚山聲明の「九條錫杖」の譜を転用したものである。
「九條錫杖」そのものが大変長い音曲であり、「願生偈」も非常に長い偈文である。
それに対応して、略譜が作られたのであろう。
「嘆仏文」と「願生偈」は、ともに安政本『聲明集』に掲載されている。
いずれも「重誓偈」に付けられた譜に準ずる。
即ち、「大懺悔」を旋律のルーツとする音曲である。

西本願寺において、「願生偈」が用いられなくなったのは昭和8年の法式改正からであるが、
全く唱えられなくなったことが、浄土真宗なるが故に不可解である。
以前にも書いたことであるがが、
『往生礼讃』「後夜偈」を以て「願生偈」と同等と見なしたとしても、
「三経一論」のくくりから考える時、不自然さを禁じ得ないのである。
「東方偈」の如き残し方もあって然りと考える。

思うに、第17世・法如を顕彰する意味付けも込めて「嘆仏文」と「願生偈」は、
「重誓偈」と同じき旋律なれば残しておくべき音曲だったと思わずにはおれない……。











【1】
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【2】
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■写真■
西本願寺阿弥陀堂遠望。
京都市下京区の西本願寺にて、2015年5月26日撮影。

【1・2】
安政本『聲明集』所収の「嘆仏文」と「願生偈」。
安政本は、博士に誤謬が見られる。
譜面の音位が文言の漢字に合致していない。
恐らくは版木の彫師による「誤植」であると考えられる。

































■知影著『魚山余響』を読む。
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■知影著『魚山余響』を読む。-10-
■知影著『魚山余響』を読む。-11-(第一条)
■知影著『魚山余響』を読む。-12-
■知影著『魚山余響』を読む。-13-
■知影著『魚山余響』を読む。-14-(阿弥陀懺法について)
■知影著『魚山余響』を読む。-15-(阿弥陀懺法について)
■知影著『魚山余響』を読む。-16-(阿弥陀懺法について)
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知影著『魚山余響』を読む。 -44-

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【1】
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  一、勧請は我弟子 我今 三世 諸天讃を学ぶべし
    勧請の品あまたあれどもこの四箇の墨譜を出さるなり
    この四品ともみな古代の墨譜なればふかく意をつけてならふべし
    敬礼勧請も一種の体あれども
    しひてならふべきほどのこともなきか
    
   




                          光隆寺知影『魚山余響』



「勧請」とは法要の開始に際して、本尊や諸仏諸菩薩諸天の来臨を請い、
目的の達成を願うための音曲である。
今、西本願寺においては昭和8年の法式改正によって、
「勧請」という名称そのものが忘れ去られている。
即ち「頌讃」に改称された音曲が、辛うじて魚山聲明の「揚勧請」に近しい旋律であるのみだ。
もっとも「頌讃」という音曲は、「勧請」由来の音曲のみならず、
旧『修正大導師作法』中の「三十二相」(←クリック)由来のものも、
「頌讃」と改称されていることは注意しておきたい。

さて「勧請」は、魚山聲明が西本願寺に伝えられた当初から存在する音曲である。
魚山法師幸雄自筆による、「諸仏勧請」など勧請3曲が西本願寺に伝えられている。
これ以降、安政本『聲明集』には「諸仏勧請(本・略)」「三世仏勧請(本・略)」
「我弟子勧請」「随喜勧請」「我比丘勧請」「敬礼勧請」「我今勧請」「諸仏勧請」など、
多くの「勧請」が収録されているのである。

知影は「我弟子勧請」「我今勧請」「三世仏勧請」などを修得するならば、
魚山聲明「諸天讃」を先ず学ぶべきであるという。
「勧請」には種類がいくつも存在するが、おおよそ4種類の音曲で構成されたもので、
いずれも古い時代に成立した旋律を持つ音曲だから、心して修得すべきであるとしている。

「三世仏勧請」は、《古代の墨譜》といわれる如く、古くから存在している。
老師僧による書写本『修正大導師作法』にある「勧請」は、まさに同一の音曲である。
「諸仏勧請」は、呂曲「諸天漢語讃」の旋律をそのまま転用している。
あるいは「我今勧請」は、「九方便」の旋律を転用している。

そして「敬礼勧請」に関しては、
現行の魚山聲明における「揚勧請」に類する博士が付けられている。
従って知影は、強いて特別に学ぶべきほどのものでもない……と言う。
ちなみにこの「敬礼勧請」は、現在でも興正寺では用いられている。
『真宗興正派 常用聲明集』には、「敬礼勧請」の原曲は不明であると注記されている。

ところで安政本『聲明集』に多くがあった「勧請」ではあるが、
明治に編纂された『龍谷唄策』では「修正会」中に往古以来の「三世仏勧請」、
「大師影供」に『天台四大師御影供』由来の「勧請(帰命頂礼日本国中 見真大師聖霊)」、
「讃仏会」に「敬礼勧請」を載せるのみとなっている。
これらの中で、「敬礼勧請」には「三世仏勧請」の博士が付けられている。

その後、『龍谷梵唄集』の「讃仏会」にある「敬礼勧請」は、
安政本『聲明集』にある「敬礼勧請」よりも簡略な博士が付けられるに至った。
大正12(1924)年に発刊された旧『正信念仏偈作法』中にも「勧請」があり、
これは「大師影供」の「勧請」の文言に「揚勧請」に準じた譜を付けている。
こうした流れが昭和8年に発刊された、現行『聲明集』に見える「頌讃」へと続くのであろう。







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【1】
魚山『六巻帖』、「諸天漢語讃」。
「諸天漢語讃」には呂曲と律曲の2種が存在する。
呂曲は黄鐘調、律曲は盤渉調である。

【2・3】
以下、安政本『聲明集』に見える「勧請」各曲。
「三世仏勧請」、【2】の右ページは「対馬三礼」。

【4】
「我弟子勧請」

【5】
「随喜勧請」

【6・7】
「我比丘勧請」

【8】
「敬礼勧請」

【9・10】
「我今勧請」、【10】の左ページは「無移讃」。

【11・12】
「諸仏勧請」、【11】の右ページは「至心偈」。
ちなみに「至心偈」は、『龍谷梵唄集』より「無量寿経作法」の「総礼頌」の文言に転用された。
「至心偈」もまた、「諸天漢語讃」の譜面を転用している。



































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湖都春望。-柳が崎・長等山-

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弥生25日、久しく柳が崎の湖畔に立ちて詠みし歌。



       冬はてて霞む弥生の柳が崎
             そぞろたちたつたそがれのころ







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同じき28日、所用にて札の辻へ行きし時に、
長等山に麓にさしかかりて、早くに満開に咲きたる桜をみるに………



      ひととせはせきてすぎなむ去年今年(こぞことし)
                     せちに想ひし三井のさくらは








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弥生の明けて卯月となれども朝夕の寒さは早春の如し。
さりながら日中は夏ぞかしとこそ思ひしに、
13日の夕刻、日の沈みたる頃に柳が崎へ打ち出でたれば、
ややもすればものぐるほしきものなりしに………



      日は暮れど比叡のかなたはほのかなり
                  こころはれじとなげかざりけれ


























■写真■
以上、滋賀県大津市長等・柳が崎周辺にて、2017年3月25・28日、4月13日撮影。
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